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白取春彦『仏教「超」入門』について(その7)

■不安でも、「するべきこと」をすればよい 
白取春彦さんは本書・『仏教「超」入門』の中で、
「悟っても煩悩は依然として生まれてくる」と指摘する。
だが、悟れば、
「その煩悩に煩わされないようになる」というのだ(本書111~112ページ)。
このことを説明するために、
白取さんはこんな例を出す。

たとえば、
今夜あたり一杯飲みたいなあという煩悩が
生まれてきたとしよう。
酒好きの人はいったんそう思うと、
昼過ぎあたりから夕方のことが気にかかって
しかたなくなる。

つい仕事もそこそこになったり、
今日しなければならない雑務を明日に延ばしたりする。
酒をうまく飲むために、
午後からできるだけ水分をとらないようにする人もいる。

こうして、
心も行いも飲酒にかかずらうようになってしまう。
煩悩に振り回されてしまっているのである。
結果、
しなければならぬことがおざなりになる。
思いが酒にばかり向いているから、
人との約束を忘れたりする。

道元の始めた曹洞宗のような禅宗では、
そのときの一事に専念することを求められる。
徹底して一事に集中するのである。(本書112ページ)


悟りを得るとは、
人間が生きていく中で生まれてしまう煩悩を
「全て消し去ってしまう」というよりも、
「それに煩わされなくなる」というほうに近い。
白取さんはそう言っている。
こうした考え方は、
現代の精神療法の一つである森田療法に
非常に似ている〔注1〕。

森田療法では、
精神病の原因は「不安」そのものではなく、
「不安に『とらわれること』」にあると考える。
だからとにかく、
「やるべきことをやる」ことが求められる。
「煩悩があるから、不安があるから、
 やるべきことに手がつかない」ではなく、
「煩悩があっても、不安があっても、
 とにかくやるべきことに手をつけろ」と教える。
「煩悩や不安を持つ自分」を受け入れた上で、
それらに煩わされず生きてゆくことに重点を置くのである。

そのために、
目の前にある一事に徹底して専念させる。
「不安で、やるべきことに手がつかなかった人間」から
「不安でも、やるべきことはきちんとやる人間、
 やろうとする人間」に変わることで、
自分だけでなく、
自分と周囲との関係も変わりはじめる。
ブッダの考えたとおり、
世界は「空」であり、絶対のものではない。
自分が変われば、世界も徐々に変わってゆく。

まず自らの行ないを変えてみることが
世界に対して良い関係(=縁起)をつくりだし、
世界をよりよい方向に革命する。
「自己革命が世界革命の原点となる」とはこういうことを言うのである。

こうして現実が変わってくると、
いつしか心の中に根強くあった不安の方が
薄らいでくる。
ブッダの考えたとおり、
人間は縁起、つまり
周囲との関係の中で「つくられる」存在であるからだ。

こうなると、
今度は革命された世界の側が
自分自身を良い方向へと向かわせてくれる。
いわば世界革命が自己革命を推進する方向へと向かうのだ。

……と、口でいうのは簡単だが、
実際にやってみるとこれがなかなかうまくいかない。
けれど白取さんは本書の中で、
だからといって嘆く必要はない、
まずは自分から『変わろうとすること自体』が大切なのだと
教えてくれる。

「自分ではそういうふうに努力しているつもりなんだけど、
 これがなかなか」と、
悪い縁起を絶ちきれないことに
いらだっている人もいるかもしれない。

けれども、
それで自分を責めたり、
自分を不甲斐ないと嘆く必要などさらさらない。

良く生きようと努力していく人生は尊く、美しいからだ。

必ず誰かが見て、
生き方の美しさにあこがれて、
その人も努力を始めるものだ。
だから、
自分の努力は良い縁起をつくっているのである。

はっきりと目に見えなくても、
それは良い縁起である。(本書79ページ)


〔注1〕前回著書を引用した精神科医のなだいなださんも、
仏教と森田療法の類似性を
次のように指摘している。

真理とは、
だれにも分かるやさしいものでなければならない。
……ブッダはそれを見つけた。
ものごとにはかならず理由がある。
人間が不安になる根源の理由は
生きているからだ。
だから生きている以上は
不安であって当たり前。
治ろう治ろうとじたばたしても無駄だ。
それより現実を受け入れて背負っていけ。

……それって、
おれたちが森田療法で
患者に納得させようとしていることじゃないか

……おれたちがブッダをまねているんだ。
ブッダは悟って、
病気には悩まなくなる。
だが、
自分の心は軽くなったが、
それで充分とは思わなかった。
自分は出家できた。
それゆえ悟れた。
出家できるのは特権だ。
特権で悟ったことは出家できないものに分け与えねばならない、
と思うのだね。
そしてかつての病人だったブッダが治療者に生まれ変わる

……そこで集団精神療法を始める

座談会の形式を使い、
弟子に自由に発言させながら、
その場の人間がわかるように、
たとえ話でしめくくる。
経典からは、
ブッダのそんな姿が浮かび上がってくる(なだいなだ『神、この人間的なもの』岩波新書、)


ブッダの布教活動を
「集団精神療法」と見ると、
在家信者は通院でときどき精神療法を受ける
比較的軽症の患者、
出家信者は入院して集団生活の中で精神療法を受ける
比較的重症の患者であったということになろうか。
こう考えると、
従来 当然とされてきた、
「出家信者が宗教的権威を持って主導権を握り、
 在家信者を従えていく」という構図も
根本的に見直さなければならなくなってくるかもしれない。


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by imadegawatuusin | 2007-11-30 16:07 | 仏教
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