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白取春彦『仏教「超」入門』について(その11)

■その後の仏教
ブッダの死後、
彼の教団は
出家修行者を中心に運営された。
彼らはブッダの教えの理論的な研究に
重点を置いた。
ブッダの説いた教義教理を
組織化・体系化して把握することを目指したのだ。
そのこと自体は、
仏教が「智慧」を重視する合理的思想である以上、
当然の流れだったと僕は思う。

しかしこの流れは、
やがて人間日常の生活とは遊離した
煩瑣な議論に終始する傾向に行き着くことになる。
ブッダの言うところの「煩悩」の正体を正確に知ろうとして、
それを108つだかいくつかに非常に細かく分類し、
その区分の仕方を巡って延々と議論を繰り返したりするようになった。
ブッダの言葉を借りれば、
「毒矢の材質」を知るための議論に
終始するようになったのだ(『仏教「超」入門』117~118ページを参照)。

これはキリスト教で言えば、
その神学研究が「聖書の解釈の解釈の解釈」に堕し、
やがてスコラ哲学(=煩瑣哲学)の行き詰まりにぶつかったことに
相当するのかもしれない。
本来 平明を旨としたブッダの教えは、
このような不毛な議論の中でズタズタに切り裂かれていった。

さらに、
教団運営の主導権を出家指導者が握ったことで、
教団は、
ごく一部の宗教エリートたちが
個人的に悟りを開くことのみを目指す運動へと
矮小化されていった。
広く大衆の中に分け入って、
一人でも多くの人々と幸福を分かち合おうと奮闘したブッダの実践は軽視され、
現実社会・生活を避けて、
どこか遠くに悟りや幸せを求めようとする傾向が強まったのだ。

しかしこのようなあり方は、
やはり「宗教改革」によって覆される運命にあるのだろう。

こうした流れ(=「小乗仏教」)に抗して現れたのが
いわゆる「大乗仏教」であった。

「大乗仏教」はもともとは、
煩瑣な議論の中にかき消されつつあった、
「すべての物事の性質は
 相互の関係の中で成立する」というブッダの教えを
「空」の思想として捉えなおす原点回帰(=ルネッサンス)運動であった。
そしてまた、
一部の宗教エリート(=出家修行者)から一般の在家信者へと
教団の主導権を取り戻そうという民衆運動でもあった。

「大乗仏教」初期の経典である、
『般若心経』をはじめとする「般若経典」では、
「実体」ではなく「関係性」を重視するブッダの主張が、
「空」の思想として鮮やかによみがえっている。

だが、
「民衆重視」の方向性は、
やがて悪い意味での「大衆迎合」へと向かっていってしまった。
それ以降作られたいわゆる大乗経典は、
ブッダ本来の精神からは
どんどん遠ざかっていったように僕には見える。

いわゆる「浄土三部経」(『無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』の3経典の総称)では、
本来は悟りに至った人間の穏やかな境涯を表わす
比喩的表現であったはずの「彼岸」(本書127~129ページを参照)が
「浄土」として実体化する。
悟りに至った人の心の平穏さが、
極楽浄土の素晴らしさ、
それも本書127~128ページにあるような、
(「極楽には五百億もの宮殿や楼閣がそびえている
  ……あたりは見渡す限りきらびやかな宝石だらけで……」というような)
実に即物的な「素晴らしさ」に
すりかえられてしまったのだ〔注1〕。
そして、
ブッダは「阿弥陀仏などという古い民間宗教の神様と
一緒にされ」てしまった(なだいなだ『神、この人間的なもの』岩波新書、111ページ)。
西方極楽浄土という観念的な、
死後の世界での成仏が説かれたためか、
「仏」というものがあたかも人間から離れた存在であるかのように
捉えられてしまったのだ。
また、
成仏とは死後の出来事であると考えたり、
死体を「ホトケ」と呼ぶなどの、
「仏」や「成仏」をいま生きている人間から切り離したものとして捉える
誤った風潮を生むこととなった。

『妙法蓮華教』(いわゆる『法華経』)では、
歴史上のブッダは仮の姿にすぎず、
遥か昔に成仏を遂げた永遠不滅の仏の化身であるなどと
臆面もなく説かれることになる。
もともとは、
個人としてのブッダその人などよりも、
普遍的なその教えの方が大切だという趣旨から出たのだろうが、
それがいつの間にやら、
逆にブッダの存在を限りなく神秘的なものとする
個人崇拝へとつながってしまった。

そして『大日経』などの密教に至って、
仏教はいよいよ呪術・祈祷をこととする、
儀式儀礼の「まじない宗教」に堕してしまう。

そして、
我が国・日本に広まった「仏教」は、
そのような「大乗仏教」だったのだ。

本書『仏教「超」入門』は、
ブッダ本来の教えに立ち返ろうという
原点回帰(=ルネッサンス)の呼びかけだ。
上に記した
「これまで安易にイメージされてきた仏教」を乗り「超」え、
本来の「仏(=ブッダ)」の「教」えの「門」に「入」ろうと説く。
『仏教「超」入門』という書名には、
僕たちへのそうしたメッセージが込められている。

本書が、一人でも多くの人たちにとって、
驚くほど新鮮で実際的なブッダ本来の教えに
触れる機会となれば幸いである。
〔注1〕鎌倉時代の僧で日蓮宗を開いた日蓮は、
「浄土」や「地獄」といったものについて、
「浄土と云うも地獄と云うも
 外(ほか)には候(そうら)はず・
 ただ我等がむねの間にあり、
 これをさとるを仏といふ・
 これにまよふを凡夫と云う」(『日蓮大聖人御書全集』1504ページ)、
つまり、
「浄土と言ったり地獄と言ったりするものも、
 ほかでもない、
 ただ私たちの心の中にあるものなのだ。
 この真理を悟った者を仏という。
 この真理を悟れない者を凡夫というのだ」と主張している。
日蓮宗ではこの主張を、
「一念三千」の法理と呼んで非常に重視している。
つまり、
「私たちの思い一つ(=一念)の中に、
 (浄土や地獄をはじめとする)三千世間(=全世界)が
 存在している」と考えるのだ。


酒井徹のおすすめ仏教書》
B=R=アンベードカル『ブッダとそのダンマ』山際素男訳、光文社新書


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by imadegawatuusin | 2007-12-04 16:33 | 仏教