――帽子屋が示した「資本主義の倫理」――
■母狐のつぶやきの意味は『手ぶくろを買いに』は
大正・昭和初期の童話作家・新美南吉の有名な作品だ。
冷たい雪でしもやけになった子狐の手を見て母狐は、
毛糸の手袋を買ってあげたいと決意する。
そこで母狐は子狐の片手を人の手に変え、
銅貨を握らせ、
かならず人間の手のほうをさしだすんだよと
言いふくめて
町の帽子屋へ
毛糸の手袋を買いに行かせてやるのである。
ところが子狐は間違って、
母狐が出してはいけないと言っていた狐の手の方を
帽子屋に差し出してしまう。
帽子屋は一目で狐であると理解するが、
それでも持ってきた銅貨が本物であることを確認し、
きちんと毛糸の手ぶくろを子狐に持たせてやったのだ。
ある経済学者が、
健全な資本主義の発展に必要なのは、
この『手ぶくろを買いに』の帽子屋が示した態度であると
言っていた。
相手が人間の子供であろうと子狐であろうと、
きちんとお金を持って来たら
きちんと手ぶくろを売ってあげるという
資本主義の倫理だ。
相手が狐だからといってお金をふんだくったり、
値段を吊り上げたりはしない。
そのお金を客がどうやって手に入れたのかも問わない。
客がお金を差し出せば、
正直に、
誠実に、
こちらも商売をするという姿勢が
資本主義の倫理なのだ。
この姿勢がないと、
市場経済というものは正常に機能しないというのである。
資本主義が当たり前になった今に生きる私たちは、
お金を持ってきた子狐に
手ぶくろを売った帽子屋の態度を
ごく当たり前であると感じる。
特段賞賛するほどのことをしたのだとは
思わないのではないだろうか。
どうして母狐が
帽子屋の態度にこれほど驚いたのかが
もはや理解できないほど、
私たちにはこの資本主義の倫理が
当たり前のものとして染み付いている。
けれど、
資本主義勃興の当時にあって、
「お金を持って来さえすれば、
相手が狐でも物を売る」という態度は
決して当たり前のことではなかった。
そのことを踏まえなければ作品の終わりの、
「ほんとうに人間はいいものかしら。
ほんとうに人間はいいものかしら」という
母狐のつぶやきの意味は理解できないのである。
【参考記事】書評:『ごんぎつね』(新美南吉)新美南吉「おじいさんのランプ」について
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