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正しい努力を少しずつ

――『PHP』誌11月号テーマ・「努力」に寄せて――

■泥棒もヤクザも「努力」はしている
とんち話で名高い
一休という室町時代の座禅仏教の法師に、
「一寸の線香 一寸の仏 寸々積み成す丈六の身」
という歌があります。
「線香を一寸たく間 座禅をしたら、
 その間だけ仏のようになることができる。
 それを一寸一寸と日々積み重ねていったら、
 ついにはその身が
 全くの仏(丈六の身)になっていく」ということです。
立正佼成会という仏教団体の長沼基之という人は、
『法華経実践の道のり』という本で
この歌を引いています。
そしてその上で、
「毎日、
 少しでもいいから仏さまのような気持ちになって、
 人さまのためになることを繰り返していけば、
 いつかは仏になることができる」、
「日常の中でも、
 一寸(ちょっと)だけ仏さまのような心を起こし、
 善い行いを積み重ねていくことはできるはずです。
 そうして日々、
 努力していけば、
 どんな人にも仏となる可能性が
 ある」と言います〔注1〕。

『PHP』11月号のテーマは
「『努力』が人生を変える」でした。
私は先ほどの一休の歌について、
日々少しずつ努力を積み重ねていくことが
大きな実りをもたらすのだという教えだと思っています。
日々の努力が明日を開いていくのです。

ただし、
ただ張り切って努め励むだけでは
正しい努力とは言えません。

腕のいい泥棒は
人に見つからずお巡りさんに捕まらないで
物を盗み取るために
色々と努め励んでいることでしょう。
大きなヤクザの親分も
自らの組を強く大きくするために
努め励んでいるに違いありません。
けれどそれは、
やはり正しい努力とは違うのです。
ただ励み努めるだけで、
そこに人の道というスジが一つ通っていなければ、
それは正しい努力ではありません。
目指すべきでないものを求めるそのような励みは
世を悩ませて人々を苦しめることにしかならないのです。

■なぜ「努力が報われない」のか
まじめに努め励んでも
実りがもたらされないということは確かにあります。
しかしそれは、
どこかに少し誤りがあったということなのだと
思うのです。

目指す所が元々間違っていたのかもしれません。
自らの励みだけでは届かないものにこだわっていても
それを成し遂げるのは難しいでしょう。
できないことはできないのです。
不可能を可能にするのは魔術であって、
努力ではありません。
努力とはすべて、
やればできることをやり抜くことに他ならないのです。

あるいは、
もっと足元から始めなければならなかったのかも
しれません。
自らの努め励みを実らせるに足る元々の力が
足りていなかったということです。

もしくは、
努め励むそのやり方がまずかったのかもしれません。
どれほど努め励んでも、
そのやり方が悪ければ
それに値する実りは得られません。

そうではなく、
正しい地点から、
正しい目標に向けて、
正しい努力を少しずつ積み重ねていくならば、
何らかの形でそれは必ず自らの身となり、
豊かな実りに結びつくものです。

〔注1〕ここでいう「仏」とは、
「悟りを開いて道に目覚めた人」という、
仏教の元々の意味での「仏」のことです。
神のような、
人には持ちえない力を持つ者ではありません。
仏とは生きた人がなるものであり、
なろうと目指すべきあり方です。
死んでから仏になっても仕方がありません。
わが国の仏教の法師の多くは、
生きている私たちに背を向けて、
死んだ人の位牌に向かってお経をあげます。
しかも今の日本語ではなく、
今の人々にはわけのわからない
昔の中国語でお経を読みます。
そういうことをしても何の役にも立ちません。
「ひと握りの知識人しかわからない言葉には、
 社会を動かす力はありません」
(橋爪大三郎『世界がわかる宗教社会学入門』197ページ)。
優れた教えは生きている間に、
わかる言葉で聞かなければものの役には立たないのです。
人は死ねばもう何一つ知ることはできません。
死んだ人にはもはや意識はないからです。
死んだ人は何を考えることも行なうこともできません。
だからお経は、
死んでから聞かされても遅いのです。
優れた教えは生きている間に自らのわかる言葉で学び、
生きている間に行ないに移して
努め励まなければならないのです。
実践に結びつかないお経などは死んだものなのです。


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by imadegawatuusin | 2013-10-09 17:26 | 倫理
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