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幻のトロツキー日本亡命計画

『トロツキー研究』(No.35)という雑誌を買ってきた。
副題は「トロツキーと日本」である。
実は、
『虹色のトロツキー』という漫画
(関東軍の石原莞爾が、
 ソ連の独裁者・スターリンに対立しているトロツキーと
 手を結ぼうとして何とか接触を試みようとする話)に
はまってしまい、
トロツキーが日本と手を組むという発想が
どのくらい現実性があるものだったのかを
調べてみようと思ったからだ。
それと、
全共闘運動などの
新左翼運動に興味を持っている人間のくせに
ろくにトロツキーのことを知らないのも
何とかしなければと思っていたので、
これを機会にトロツキーの論文もきちんと読んで
勉強しておこうと思ったのだ。

この本の表紙を見てまずびっくりしてしまった。
そこには一枚の写真が掲載されている。
内藤民治という日本人が、
トロツキーとスターリンとの3人で
仲良く並んで写っている。
トロツキーというのは、
「スターリンに対する最も非和解的な敵対者」
だったはずではなかったのか。
どうしてこんなに微笑みながら
スターリンと1枚の写真に写っているのか。
そもそもこの内藤民治というのは何者なのか。

このことについては、
この雑誌に掲載されている
「トロツキーと会った日本人」という論文の中で
紹介されている。
内藤民治は日本のジャーナリストで、
日ソ間の通商関係の発展に貢献した人物だという。
そして後に、
幻の「トロツキー日本亡命計画」の立案者ともなる。
彼は戦後の回顧録
(「忘れられた人物―内藤民治回顧録(上)・(下)」『論争』1962年12月号・1963年1月号)
のなかで、
トロツキーとの出会いについて次のように語っている。
 
 ≪彼(酒井注:=トロツキー)とわたしが
  本当に心から打ち融けるようになったのは、
  レストラン・イルミタージュ(?)での会食からです。
  彼はタバコも酒も飲まず、
  思想問題を論じているうちに、
  わたしは、こんなことをいったのです。
  
  “思想というものは、
   水の如く光の如く、空気の如きもので
   円融無碍、停滞することのないもの……”
  
  これがいささか彼に感銘を与えたらしく、
  それから
  共産主義のセクショナリズム論争の花が咲いて、
  前のような論旨で、
  共産主義必ずしも最高の理想とは思わないと
  主張したわけです。
  この会食ですっかり仲良くなりました。≫
 
「共産主義必ずしも最高の理想とは思わないと
 主張」してトロツキーと「仲良くな」ったと彼は言うのだ。
もし本当だとすれば、
トロツキーは僕が思ってきたよりも
度量の深い人物なのかもしれないと思った。

そして、例の写真の話が出てくる。

 ≪わたしが行くと、
  (酒井注:トロツキーは)いつも先客に優先して
  会ってくれました。
  何回目かのときに、
  偶然スターリンがやってきました。
  その同じ部屋で二人の用談が終ってから、
  わたしどもはセン・片山を加えて
  四人で記念写真をとりました。
  写真屋を呼んで取ってもらったのです。
  スターリンはまだ独裁者にはならず、
  二人は不仲ではなかったように見受けられましたが、
  後に何かでわたしは、
  このときのスターリンのトロツキー訪問は、
  始めの終わりで、ただ一回だけだったと知りました。≫

なるほど。
それでスターリンとトロツキーとが
一緒に写っていたわけだ。
でもこの文章では
片山潜も一緒に写ったことになっているが、
この写真には写っていない。
どういうことなのだろう。

それはともかく、
「始めの終わりで、ただ一回」という
スターリンのトロツキー訪問に
日本人が立ち会っていたことは間違いない。
これはすごいことではないだろうか! 
「トロツキーと会った日本人」著者の西島栄さんも
次のように言っている。

 ≪トロツキーとスターリンが集団の一部としてではなく、
  仲よく二人並んでカメラ目線で写っている写真は、
  おそらく、世界でこれただ一枚だろう。
  世界のどんな研究所、アルヒーフにも、
  これほど二人が仲よく並んで写っている写真はあるまい。
  その中に、
  日本人、内藤民治がいっしょに写っているのだから、
  この写真はなおさら貴重である。
  ぜひとも、
  各国の『トロツキー写真集』に入れるべきだろう。≫

さて、
この内藤民治という人は
かなりミーハーな性質らしい。
彼は
トロツキーと一緒に写真を撮ってもらっただけにとどまらず、
トロツキーから直筆サイン入りのブロマイドまでもらって
大喜びするのである。
 
 ≪わたしは今でも、
  彼の人間としての持ち味を忘れることができません。
  このレーニンと並んでの十月革命の大立者が、
  わたしの希望によって、
  自分の写真にサインをしたとき、
  何と、日本文字(漢字)で、
  “日本の国友レオ・トロツキー”と
  ハッキリ書くではありませんか。
  わたしだけでなく、
  その場に居合わせた片山もおどろいていました≫
 
内藤はこれがよほどうれしかったらしく、
多分いろんな人に吹聴したのだろう。
戦前の日本共産党最高指導者・佐野学も、
著書の中で次のように書いているという。

 ≪ある日、内藤氏は、
  昨夜トロッキイに会ったが
  彼は片仮名で
  「ニホンノトモ、トロッキイ」と書いてみせたと云って
  感服していた(『スターリン主義と流血粛清』)≫

どうやら実は、
日本語でサインするというのはトロツキーの持ちネタであったらしく、
佐野学と共に転向した
戦前日本共産党のもう一人の最高指導者・鍋山貞親も
同じような体験をしたそうだ。
鍋山がコミンテルン第六回拡大執行委員会
(西島さんによると「第七回拡大執行委員会の間違いである」とのことだが)
に出席し、
主流派(スターリン派)と反対派(トロツキー派)の大論争を
目の当たりにしたときのことである。

 ≪休憩のとき、
  廊下に出たら、
  ばったりトロツキーに出会った。
  初対面なのに、
  彼は、ニコニコしながら、
  中国の同士かネと呼びかけてくる。
  いや、日本人だといったら、
  いきなり私の腕をかかえ、
  喫煙室に行って、
  隅のソファに、わたしを座らせた。
  そして、
  ロシア語はわかるか、英語はどうだと、
  早口に、また人なつかしげに問いかけるのである。
  私は、ただ首を振って、
  英語をほんのすこし、
  ロシア語を二言三言と答えるよりほかなかった。
  彼は、
  それじゃあしょうがないという面持ちをしながら、
  手帳をひろげ、
  その空白に、まずい日本字で
  『日本ノ友』と書いて見せるのである。
  
  どこで、誰に教えてもらったのか知らぬが、
  器用な人である。
  (鍋島貞親「非合法下の共産党中央委員会」『文芸春秋・特集』1956年12月号)≫

「トロツキー」というと、
「良い意味でも悪い意味でも厳しい人」だという印象を抱いていたが、
案外茶目っ気のあるおじさんだったのかもしれない。

さて冒頭で触れた、
スターリンに対立したトロツキーが
「反スターリン」で日本と手を結ぶという可能性についてだが、
はっきり言ってこれはゼロだ。
これを機会にトロツキズムについても多少勉強したのだが、
トロツキーは
「労働者国家無条件擁護」という理論を唱えていたようなのだ。
これは、
『たとえスターリン方の社会主義国であっても、
 それが社会主義国である以上は、
 ファシズムの侵略に対しては
 断固としてこれを擁護する』というような考え方らしい。
日本とソ連との関係についてもトロツキーは、
『東京日日新聞』と『大阪毎日新聞』とを代表する
南条記者の質問に対して
次のように答えている。
(ちなみに、この両新聞は後に合併して今の『毎日新聞』になる)。

 ≪日本と中国との闘争において、
  私は前面かつ完全に中国の側に立っています。
  スターリン体制に対する私の非和解的対立にもかかわらず、
  ソ連と日本とが衝突した場合には、
  私はソ連が進歩を代表し、
  日本が反動を代表するものであると考えています。≫

またトロツキーは、
「大東亜共栄圏」や「八紘一宇」といった思想に対しても、
心情的には一定の理解を示しながらも
次のようにたしなめている。

 ≪日本の若者が東方の非抑圧民族に同情しているということ、
  このことは完全に理解できるし、
  自然なことであり、喜ばしいことです。
  しかし、
  この同情が無定形で、無規定で、
  センチメンタルなままであるならば、
  それは、
  抑圧された植民地人民にとって
  ほとんど利益とならないでしょう。
  それどころか、
  ある条件においては、
  日本の帝国主義者たちを
  無意識的に助けることになるかもしれません。
  一見したところ、
  こういうことはありそうにもないように見えます。
  しかしながら、そうなのです。
  ……(中略)……日本帝国主義のお気にいりは
  「アジア人のためのアジア」という定式です。
  しかし、
  日本帝国主義はこの定式を、
  アジアの各民族が独立する権利を有しているという意味にではなく、
  アジアの勤労大衆を搾取する権利を有しているのは
  アジアのブルジョアジーだけであり、
  その中でも、
  最も豊かで強力な
  日本のブルジョアジーだけであるという意味に
  理解しています。
  ……(中略)……外見上解放的なスローガンである
  「アジア人のためのアジア」は、
  「アメリカ人のためのアメリカ」というスローガンが
  アメリカ帝国主義の武器になっていったのと全く同じ程度に、
  日本帝国主義の武器となってしまっている、ということです。
  (「ソヴィエト・ロシアと日本」) ≫

このように「労働者国家無条件擁護」を掲げていたにもかかわらず、
スターリンによって「裏切り者」のレッテルを貼られたトロツキーは
トルコ・フランス・ノルウェーと「旅券のない旅」を続け、
1937年にはメキシコに亡命せざるをえなかった。

しかしそんななかでも、
彼と文通を続けた人物が日本にいた。
先ほどから登場している内藤民治である。
内藤は当時のことをこのように語っている。

 ≪トロツキーがわたしに
  “JAPAN WILL COMITT SUICIDE”
  (日本軍国主義自壊論)というパンフレットを、
  亡命先のコンスタンチノープルから送ってよこしたのは、
  あれは満州事変のあと一両年たった頃だったでしょうか。
  この本がきっかけになって、
  彼と私との間に、
  手紙の往復が長く続きました。
  ……(中略)……トロツキーはこの本で、
  日本の八紘一宇の思想を強く批判しています。
  ……(中略)……しかしわたしは、
  アメリカの経済封鎖に対しては、
  彼の所論に強く反論したのです。
  そこで勢い海山幾千里を隔てて、
  理論闘争が続けられた次第です。
  その間に世界情勢は残念ながら、
  トロツキーが予見したように発展していきました。
  なにぶん、航空機のない時代、
  相手は亡命革命家、
  こちらは信書の検閲のきびしい日本のこと、
  手紙が相手につく頃には、
  情勢が一変しているのです。
  間の抜けた論争をやったものだと思います。≫

そこで内藤は、
トロツキーに次のような提案をした。

 ≪わたしは、トロツキーに
  一つ日本へ来てみる気にはなれませんか、
  日本はそれほど軍国主義で熱狂している人ばかりでは
  ありませんよ、と誘ったのです。
  何ヶ月かたって
  行っていいというメキシコからの返事です≫

この返事に内藤民治は喜んだ。
彼はトロツキーの受け入れ態勢・
「輸送法」・住む場所の手配などの準備を整えていく。
西島さんによると内藤は、
トロツキーの住む地域として、
ロシアと気候や風土の似た樺太を
候補として考えていたという。
ジャーナリストとはいえ、
かつては日ソ間の通商関係を動かしたほどの実力者である内藤は
海軍とも話をつけ、
メキシコからの石油タンカーを利用して
トロツキーを日本に運ぶことまで話を進めた。
あとは内藤がタンカーに乗り込み、
トロツキーをメキシコから連れてくるだけのはずだった。

 ≪いよいよわたしは
  粟林汽船のタンカーに乗り込むチャンスを
  待っていたのです。
  問題はメキシコにいるトロツキーとの連絡です。
  
  ところが向うの事情は早急に変わってきました。
  トロツキー身辺の危険は、
  昭和十五年に入って日に日に悪化してきたのです。
  ……(中略)……五月には二十名の赤色テロ隊が、
  メキシコ警察隊の警備するトロツキー邸を襲った。
  彼らは巧みに侵入して、
  トロツキー夫妻とお孫さんの部屋を外から軽機関銃で乱射した。
  幸い三人は助かったが、
  八月二十日、
  とうとうラモンという青年刺客によって暗殺されました。
  わたしはその前年からヤキモキしていたが、
  どうにも連絡がチグハグになって、
  わたしの乗船が遅れたのです。
  トロツキーの暗殺は私の生涯の痛恨事でした。
  もう少し早く何とかしておればと、
  幾度悔いの涙を流したか知れません≫

内藤民治の計画は、
わずかの時差でスターリンの放った刺客に
惜しくも先を越されてしまったのである。
もし成功していれば、
それこそ歴史が変わったかもしれない。

しかし、
これが事実とすればすごいことだ。
たとえ失敗であったとしても
歴史に残る出来事だ。
どうしてこの出来事が
世間ではあまり知られていないのだろうか。

それは、
これらの出来事が事実であることを示す史料が
実は何もないからだ。
いや、正確に言うと、
「現時点では何もない」ということになるだろうか。
 
藤は、この出来事に関する史料について
次のように述べている。

 ≪とにかく、
  トロツキーの日本亡命工作には、
  私は数年間、打ちこみ、
  見事に失敗しました。
  私とトロツキーとの往復の手紙や、
  この亡命工作に関する秘密文献は、
  一括して長野県の蓼科にある
  “百年間秘密史料埋蔵の塔”の地下に
  追加の分として埋蔵しました≫

ちなみに、
この塔の史料が公開されるのは
2032年とのことである。
そのとき、
トロツキーと日本をつなぐもう一つの「虹」が
浮かび上がってくるのかもしれない。
『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.14より転載)
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by imadegawatuusin | 2002-11-25 02:58 | 歴史
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