《はじめに》
同性愛に対しては、 さまざまな偏見や差別が存在する。 幼稚園や保育所の子供たちでさえ、 「ホモ」・「レズ」・「オカマ」といった言葉を、 相手を蔑み からかうために使っている。 しかし、それを注意する人は少ない。 「同性愛は『異常』であり、『変態』である」。 これが、 現代日本における同性愛の一般的認識であろう。 これは、 古今東西 普遍のものであるのだろうか。 今回僕は特に、 「西洋精神文化の源泉」と言われる 古代ギリシア・ローマ時代と聖書を中心に 西洋における男性同性愛者観の移り変わりを調べることで、 この問題に取り組みたい。 (1)古代ギリシア時代……男同士の恋愛は「男らしい」ものなのだ! 古代ギリシア社会では、 男性同性愛 (特に「大人と少年」・「市民と奴隷」などといった 上下関係のある間柄での男性同性愛)が 盛んに行なわれていた。 「世の中には男性を愛する男性もいれば 女性を愛する男性もいる」という事実を、 当時の人々は当然のこととみなしていた(プラトン『饗宴』191e~192a)。 また現代日本では、 男性同性愛者はしばしば「オカマ」などという言葉で呼ばれ、 「男らし」くない人々であると考えられる傾向にある。 しかしギリシア社会においてはむしろ、 男を愛する男はますます男らしさに磨きがかかり、 女を愛するような男は 女に似てどんどん女みたいになると考えられていたようだ。 古代ギリシアの哲学者・プラトンは、 『同性愛の恋人同士がペアを組めば最強の戦士になる』 との意味のことを論じているし(プラトン『饗宴』178e~179a)、 都市国家・テーバイでは 実際にそのような部隊が編成され、 結果は大成功だったという(プルタルコス『プルターク英雄伝』「ペロピダース」18)。 (2)古代ローマ時代……男に恋をするなんて、まるで「女みたい」じゃないですか 古代ローマの英雄・カエサルは、 エジプトの女王・クレオパトラを恋人にしたことで 知られている。 しかし彼は、 小アジアの王国・ビテュニアの男王・ニコメデスの 恋人でもあった。 このため彼は 「女王」・「妾」などと呼ばれていた。 また、 カエサルのガリア征服を讃える凱旋式のときには、 カエサル軍の兵隊たちは、 「カエサルはガリアを、 ニコメデスはカエサルを押えつけた」という歌を歌っていた。 カエサルのことを 「あらゆる男の女」などと言った人もいたそうだ(スエトニウス『ローマ皇帝伝』「カエサル」49~52)。 さて、この文章は、 「人々の男性同性愛者に対する視線の変遷をたどる」ことを目的とする。 したがって、 カエサルが同性愛者であったという事実は ここではさして重要ではない。 問題は、 人々がカエサルのことを「女王」・「妾」と呼んでいたり、 「ニコメデス」に「押えつけ」られたと言ったりしたということだ。 つまり、 『同性愛者のカエサルは弱々しい』・ 『同性愛者のカエサルは女みたいだ』と言って からかっていたわけである。 先にも触れたがギリシア時代には、 男の同性愛は「女みたい」であるとは考えられていなかった。 歴史学者のジョン=ボズウェルによると、 むしろ異性愛者の男ほうが、 同性愛者の男から「女みたい」だと非難されることが 多かったくらいなのである(ジョン=ボズウェル 大越愛子・下田立行訳 『キリスト教と同性愛』50ページ参照)。 ところがカエサルは、 ニコメデスと恋人同士であることが 「女みたい」だと言われていた。 「ニコメデス」に「押えつけ」られたとまで言われている。 もちろん僕は、 男が「女性的」であることを悪いこととは思わない。 まして、 女は弱々しいなどと考えているわけでは決してない。 ただ、 『男の同性愛者は女みたいだ』と考えられたところから 男性同性愛者への差別が始まったのは 紛れもない事実である。 つまり、 「女みたい」だということは悪いことだという前提の上に、 男性同性愛者への差別は始まったのだ。 このことは、 男性同性愛者差別が実は女性差別と 表裏一体の関係にあることを示唆している。 とはいえ、 後の時代に比べれば、 ローマ時代は一般に同性愛者に寛大だった。 事実、 アウグストゥス(ローマ帝国の初代皇帝。カエサルの養子)をはじめとする 何人もの男性同性愛者(スエトニウス『ローマ皇帝伝』「アウグストゥス」68)が 皇帝の位にまで上り詰めたのである。 しかし五賢帝以降、 ローマ帝国の没落にしたがい、 西洋世界は同性愛者に対する優しさを しだいに失ってゆく。 これは、 ユダヤ人や異端者などへの差別の歴史とも 見事に重なり合うのである。 戦乱により交通が遮断され、 多様な価値観に出会う機会が失われたためだろうか。 (3)聖書……この分厚い聖書の中で、同性愛を非難しているのはたったの5箇所 『旧約聖書』で同性愛を批判している箇所は、 『レビ記』という書の中の2箇所だけだ〔注1〕。 「女と寝るように男と寝てはならない。 それはいとうべきことである」(『レビ記』18・22)という箇所と、 「女と寝るように男と寝る者は、 両者共にいとうべきことをしたのであり、 必ず死刑に処せられる。 彼らの行為は死罪に当たる」(『レビ記』20・13)という箇所とである。 「死罪」というと大事だと思われるかもしれない。 しかしこの文の直後には、 生理期間中の女と寝てこれを犯した者は 死刑だというような記述もある(『レビ記』20・18)。 またこの『レビ記』には、 血液や脂肪を含む肉を食べてはいけないとの記述もある。 これにいたっては 「代々にわたって守るべき不変の定め」(『レビ記』3・17)とまで 書かれているのだ。 今のキリスト教徒がどれほどこれを守っているかは 大いに疑問である。 以上のことからもわかる通り、 キリスト教徒の間では、 『旧約聖書』の戒律はあまり重視されていない。 これは、 『旧約聖書』・『新約聖書』という名前にも表れている通り、 『旧約聖書』というのは「旧い契約」であると 考えられているからだ。 イエス=キリストが遣わされ、 人類と神の間には新しい契約が結ばれたのだから、 『旧約聖書』の戒律はそれほど杓子定規に守る必要はないという考え方が 浸透していたからなのだ。 だから、 『レビ記』のこの部分が理由で同性愛者は差別されたのだと言っても 説得力はない。 では、 『新約聖書』ではどうなのだろう。 まず、 イエス=キリストは同性愛を批判したりはしていない。 『新約聖書』の中で同性愛を批判しているのは、 イエスの弟子のそのまた弟子のパウロである。 パウロが同性愛を批判していると考えられている箇所は 全部で3箇所だ(『コリントの信徒への手紙』6・9~11)(『テモテへの手紙』1・9~10)(『ローマの信徒への手紙』1・26~27)。 ただ、 それぞれの文脈を見ればわかることだが、 パウロは別に同性愛を批判するために このような文章を書いたわけではない。 いずれのケースにおいても、 同性愛者はあくまで、 他の何らかの悪人を批判するために登場させられただけなのだ。 キリスト教が同性愛者を迫害した理由を パウロの手紙にもとめる意見は多い。 しかし、 これのみを同性愛者迫害の根拠とすることは 妥当性を欠いている。 先の『旧約聖書』同様、 このパウロの手紙も 一字一句守られてきたとは言いがたいのだ。 たとえば先の『コリント信徒への手紙』では、 女性は祈りをする際に 頭に物をかぶるよう求められている(『コリントの信徒への手紙』11・5~6)。 しかし、 この記述がキリスト教徒の間で遵守されることは ほとんどなかった。 要するに、 聖書の記述のみが原因で同性愛者が迫害されたわけではない。 むしろ同性愛者という少数派への偏見・嫌悪が先にあり、 それを正当化するために聖書の語句が利用されたと見るほうが 妥当なのである。 そしてその後の歴史は、 同性愛者への差別と迫害の方向へと動いてゆくことになる。 〔注1〕同性愛のことを 「ソドミー」(あるいは「ソドミータ」)と呼ぶことがしばしばある。 これは、 「『旧約聖書』に登場するソドムの町は、 同性愛がはびこったので神によって滅ぼされたのだ」という 俗説によるものだ。 しかし、 『旧約聖書』の当該部分(『創世記』18・20~19・15)に そのような記述があるわけでもないし、 それ以外の部分にそうした記述があるわけでもない。 それどころか、 『旧約聖書』の『エレキゼル書』には、 「ソドムの罪は」、 「高慢で、食物に飽き安閑と暮らしていながら、 貧しいもの、乏しい者を 助けようとしなかった」ことなどである(『エレキゼル書』16・49~50)と、 ソドム滅亡の具体的な原因まで書いてあるのだが、 そこでも同性愛には一切触れていないのだ。 (4)その後の西洋……同性愛者はハイエナでユダヤ人でイスラム教徒でもあり…… 『バルナバの手紙』という文章がある。 西暦70年から140年ごろに成立した、 『使徒教父文書』と呼ばれる諸文書の一つである。 「手紙」といってもその実態は一種の神学論文であり、 『旧約聖書』から膨大な引用をして キリスト教を擁護する内容になっている。 そしてこの文章が、 『兎には年の数だけ肛門がある』ことを「根拠」として、 『旧約聖書』の『兎を食べてはならない』との意味の文章(『レビ記』11・6)は 「子供を犯す」ことを禁じたものであると断定した。 そしてその直後の文章で、 ハイエナやいたちも食べてはならないとしたのである(『バルナバの手紙』10・6~8)。 その後 西洋では、 ここにある「子供を犯す」ことと男性同性愛とが、 同一視されるようになってしまった。 おそらく、 古代ギリシアなどで多く見られた 「少年愛」からの連想だったのであろう。 さらに、 この文章に出てきた兎・ハイエナ・いたちなどは 「男性同性愛の象徴」として その後の西洋において扱われるようになるのである。 ハイエナと男性同性愛との不快な連想は、 「ハイエナは墓を暴き死体を貪り食う」といった伝説と相まって ますます強化されることになる。 こうして、 「まるでハイエナのようだ」の一言で 同性愛者を非難することが可能となった。 12世紀になると、 同性愛者をハイエナと結び付けた上、 そのハイエナをユダヤ人と結び付けるような文章まで登場する(ピルパント・モーガン文庫、ms832,fol.4)(ジョン=ボズウェル 大越愛子・下田立行訳 『キリスト教と同性愛』10ページ参照)。 またこの12世紀は 第2回・第3回の十字軍が派遣された世紀でもあり、 イスラム教徒に対する憎悪が西洋では高まっていた。 キリスト教陣営はしばしば、 『イスラム世界では男性同性愛がはびこっている』などという論陣を張って イスラム教を批判したのである(ジョン=ボズウェル 大越愛子・下田立行訳 『キリスト教と同性愛』285ページ参照)。 男性同性愛者に対する敵意は やがて社会の諸制度へと浸透した。 そしてこれは、 先に見てきた通り、ユダヤ教徒・イスラム教徒などの 「異端者」一般に対する不寛容の拡大と 決して無関係ではなかった。 そして、 このようにして形成されてきた偏見が、 西洋文化の伝播した世界各地域の 男性同性愛者観の下地となったのだ。 もちろん、我が国もその例外ではない。 《おわりに》 あいまいな根拠に支えられた同性愛者嫌悪は、 長い間多くの人々を苦しめてきた。 『同性愛者解放』ということがようやく公然と主張されるようになったのは、 20世紀の後半・1969年6月に アメリカで、「ストーンウォールの叛乱」(別名「ゲイ革命」)と呼ばれる事件が あってからのことなのだ。 ナチス=ドイツがユダヤ人を虐殺したことはよく知られている。 しかし、 それにも劣らない残虐なやり方で、 多くの同性愛者が強制収容所に送り込まれ虐殺されたことは あまり知られていない。 本来なら、 ナチス=ドイツによるユダヤ人差別が批判された終戦後に、 同性愛者差別も批判されるべきであったと僕は思う。 今では一応、 「ユダヤ人を差別するのは悪いことだ」という認識は 世界的にみてだいぶ一般的になりつつある。 しかし同性愛者に対しては、 いまだに堂々とからかい、蔑んでもよいというような風潮がある。 けれどこれは、 決して切り離して考えるべき問題ではない。 なぜなら歴史的にみれば、 ユダヤ人・「魔女」・異端者などに対する差別と 同性愛者に対する差別とは 時期的にも思想的にも見事に重なりあうからだ。 社会が排外主義的になり、 異質な人々を受け入れる余裕がなくなってしまった時代に、 ユダヤ人は迫害され、「魔女」は差別され、 そして同性愛者は抑圧されてきたのである。 さらに、 こうした差別は互いに結び付けられあうことによって強化され、 再生産されてきた。 今こそ、その悪循環を断つべきときではないのだろうか。 【参考文献】 ジョン=ボズウェル(大越愛子・下田立行訳)『キリスト教と同性愛―1~14世紀のゲイ・ピープル』、国文社、1990年。 デイヴィッド=M=ハルプリン(石塚浩司訳)『同性愛の百年間』、法政大学出版局、1995年。 ハインツ=ヘーガー(伊藤明子訳)『ピンク・トライアングルの男たち―ナチ強制収容所を生き残ったあるゲイの記録』、パンドラ、1997年。 キース=ビンセント・風間孝・河口和也『ゲイ・スタディーズ』、青土社、1997年。 (『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.16より転載) 【関連記事】 ソドムとソドミーと同性愛
by imadegawatuusin
| 2002-12-09 22:54
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