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カテゴリ:仏教( 20 )

■本来の仏教は徹底した「処世術」である 
前回説明したようにブッダは、
この世に存在するすべてのものの あり方は
他のものとの関係(=縁起)の中で成立するという考えを打ち立てた。
しかしこれは、
存在論や認識論・現象論などの形而上学上の課題に
回答を与えるためでは決してない。

ブッダの関心はただ、
「人間は、どのように生きてゆけば
 この世の苦しみを克服し、
 心の平穏を獲得することができるのか」という一点に尽きた。
このことに関係のない衒学的な問い、
例えば「この世界はいかにして生まれたのか」とか、
「宇宙の果てはどうなっているのか」というような
「問いのための問い」については、
ブッダは、
自分の目標に無関係なものとして無視した。

だから彼は、
「人間は、どのように生きてゆけば
 この世の苦しみを克服し、
 心の平穏を獲得することができるのか」という自らの第一課題に対して、
「他のものとの関係」を重視する立場から回答を見つけ、
悟りを開いてブッダとなったが、
それ以外の問題については特別の見解を得たわけではない。

本書・『仏教「超」入門』の中でもそのことは繰り返し説かれている。

例えば、白取春彦さんは本書の中で こう言っている。

悟れば死後のことが分かるようになるのか。
いや、
悟ったとしても死後のことは依然として分からない。

しかし、
死後のことが気になってしかたがないという思いはなくなる。(本書118ページ)


ブッダがや縁起について説いたのは、
それがあくまで彼の問い、
つまり、
「人間は、どのように生きてゆけば
 この世の苦しみを克服し、
 心の平穏を獲得することができるのか」という問いに対する
回答の前提となる事柄であったからだ。

白取さんは本書の中で、
仏教を「哲学」であると言っている。
これはおそらく、
「宗教」という言葉に付随する
非合理的・超越的・神秘的……といった印象を
仏教から払拭しようとしたためだろう。
仏教が現実に即した合理的な思想であることを
「哲学」と呼ぶことで強調しようとしたのだと思う。

だが、
「たとえ答えがないかもしれない問いであっても、
 『ただ答えが知りたいから』、
 その問いをひたすら問い続ける」のが「哲学的思考」なのだとすれば、
仏教は はっきり言って「哲学」ではない。
仏教は、
「この世の苦しみを克服する」という目標に無関係な問いには
最初から関わろうとはしないのである。
だから仏教は、
むしろ「処世術」と言った方が近いかもしれない。

これは決して仏教を
貶めて言っているわけではない。
「哲学」が高尚で「処世術」が低級だなどという考えは、
世の中に氾濫する低級な、
小手先だけのテクニックが、
「処世術」として もてはやされていることに対する
単なる反動的印象にすぎない。

本物の「処世術」は人生というものの本質をつく。
ブッダが目指したものもまさにそれだった。

白取さんは次のように言っている。

人生には限りがあるから時間的余裕などない。
だから、
ブッダはまずはもっとも重要なことから
手をつけよといさめたのである。(本書120ページ)


と。


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by imadegawatuusin | 2007-11-28 15:54 | 仏教

■「空」=絶対でない  「縁起」=「関係」 
本書・『仏教「超」入門』の著者・白取春彦さんは、
仏教の「空」という概念を、
「実体がない」という意味だと説明した。
しかし、
ドイツ哲学を専門とする白取さんの「実体」という言葉の使い方は、
僕たちが日常生活の中で使う「実体」という言葉の使い方とは
かなり大きくずれている。

普通、世間の人々は、
「実体がない」という言葉を聞けば、
「実は存在しない」とか「見せかけだけが存在する」という意味だと思ってしまう。
「○○という会社は単なるペーパーカンパニーで実体がなかった」
というような具合に使用する。

これに対し、
ドイツ哲学などの業界では、
「実体」という言葉は、
「他の何者からも完全に独立して存在する性質」という意味をあらわす。
「絶対的な性質」と言い換えることもできよう。

だから、
白取さんの言う「実体がない」(=空)という言葉は、
僕たちが普通に使う日本語としては、
むしろ「絶対ではない」という言葉に近い。

より正確に説明すると、
「空」とは、
「全てのものの性質は、
 そのものの性質として他から完全に独立して存在するのではなく、
 他のものとの関係のなかで
 はじめて そのものの性質として成立する」
という考え方のこと、ということになる。

具体例を挙げて説明しよう。
白取さんはこんな例を挙げている。

その花は美しいか、美しくないか。

この問いに、
誰も正確には答えられない。
なぜならば、
美しさはその花に付随している何らかの要素ではなく、
花を見る人の感性の働きだからである。(本書146ページ)


これは非常に分かりやすい例だ。
僕たちはいとも簡単に
「美しい花」という言葉を使ってしまう。
しかし、その花自体に「美しい」という性質が
あらかじめ備わっているわけではない。
その花が人間に見られ、
その人間の心にある特定の(つまり「美しい」という)感情を抱かせたとき、
はじめてその花は「美しい花」となるわけだ。

その花が「美しい」という性質は、
その花固有の性質として他の存在から完全に独立して存在するのではない。
花と人間とのかかわりの中で、
はじめて「美しい花」というものが成立する。

だから、見る人が違えば、
たとえ花は同じでも「美しい」という性質は
そこに成立しないかもしれない。
また、たとえ見る人が同じでも、
その人のその日の体調や気分、あるいは美意識が変わってしまったら、
やはり「美しい」という性質は成立しないかもしれない。

よって花の美しさは「絶対ではない」ことがわかる。
これが「空」の考え方だ。
花の美しさが「空」=「絶対ではない」からといって、
美しい花が「存在しない」というわけではない。
花そのものの存在だけから「美しい」という性質は発生しないと
言っているだけだ。

こう言うと、
次のような反論が飛び出してくる。

「それは『美しい』という主観的な性質についてだからじゃないのか。
 例えば、『赤い』という客観的な性質についてはどうなのか」と。

なるほど。
確かに「赤い花」の場合は、
「赤い」という性質はその花固有の性質として、
他から独立して存在するように見える。
そこに人間がいてもいなくても、
赤い花は赤いに決まっているだろう……と。

しかし、
「赤い花」の「赤い」もまた、
花そのものと他の存在との関係の中で
はじめて成立する性質に過ぎない。

そもそも「赤い」とはどういうことなのか。
光学的に言うとそれは、
「『光をあてたとき』、
 その光の中の『赤色』以外の部分をその物質が吸収し、
 『赤色』のみを反射する性質」ということだ。
受けた光の成分の中の「赤色」の部分だけを反射するので、
僕たちの眼にはそこに「赤色」が見える。

だから、
「赤色」という性質を、
「光」という概念抜きで説明することはできない。
他の何者かから当てられる「光」を抜きにして、
花そのものの赤さを説明することはできないのである。

ごく単純に考えてみよう。
どんなに「赤い」花でも、
それを真っ暗な暗室の中に入れてしまえば、
そこに「赤い」という性質は発生しない。
暗闇の中で見る花は決して「赤」くはないのである。

「当たり前だ」と笑わないでほしい。
このことは、
「赤い」という性質はその花単体では成立せず、
必ず光との関係によって成立するという真理を証明している。

よって、花の赤さは「絶対ではない」ことが分かる。
つまり「空」だ。
花の赤さが「空」=「絶対ではない」からといって、
赤い花が「存在しない」と言っているわけではない。
花そのものの存在だけから「赤い」という性質は発生しないと
言っているだけだ。

「赤い花」は花だけで「赤」くあることはできない。
その花の「赤さ」は、
太陽とか、電球とか、
他の何ものかによって光があてられたとき、
はじめてそこに成立する性質なのだ。

もっと極端なことを言うと、
そもそもその花そのものが、
光がないと生きてはいけない。
水がなくても生きてはいけない。
土壌に栄養がなくても生きてはいけない。

植物は光を浴びて光合成し、
根から水を吸い、養分を吸収することによって、
はじめて存在することができる。

その花の「赤さ」は、
花と太陽との関係の中で成立し、
花と水との関係の中で成立し、
または花と土壌との関係の中で成立し、
気候や気温、その他この世の様々なものとの無数の関係の中で
ようやく成立した性質だったのだ。

その、そのものの性質の存在を支えるありとあらゆる関係のことを
仏教では「縁起」と呼んでいる。
これが「縁起」と「空」である。


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by imadegawatuusin | 2007-11-27 15:45 | 仏教

■「実体はないけど現象はある」? わけわかんねーッ!
話を元に戻そう。
本書・『仏教「超」入門』の中で白取春彦さんは、
「奈良、平安、鎌倉時代から今に至るまで、
 仏教では翻訳作業に精を出してこなかった」(本書186ページ)、
「仏教経典を日本語に正しく翻訳する努力すら
 なされなかった」と指摘している(本書178ページ)。

我が国では昔から、
僧侶は漢語、
つまり古代中国語のままで経を読み、
僕たち庶民もそれを、
意味がわかりもしないくせに(あるいは意味がわからないからこそ?)
ありがたそうに聞いてきた。

だから、仏教の理解に欠かせない言葉が、
いまだに日本語の中に
きちんと消化されていないという事態が起きている。
例えば、「縁起」や「空」といった言葉である。

白取さんはこの「縁起」や「空」といった概念を
何とか僕たち日本人にわからせようと、
以下のような説明を行なうのだが、
正直言って、成功しているとは言いがたい。

「空」とは、
そこに見えているものには「実体がない」ということを
意味している。

ふつうは、
実体があるからこそ、
そこに物や人が存在していると考える。
しかし仏教では、
その存在はたんに現象にすぎないのだと見る。

だから、
「空」とは、決して存在の「無」を意味する言葉ではなく、
実体の「無」を意味すると同時に、
現象の「有」を意味している言葉、となる。

では、
そこに実体がないのに、
どうして現象が生じているのか。

現象が相互に限定したり、
依存したりすることによってである。

現象のこの相互依存は、
「縁起」と呼ばれる関係である。
「縁起」によって、
現実世界がここに生じているというわけだ。(本書75ページ)


……。
この文章、一読して、意味が理解できるだろうか。
少なくとも、僕は理解できなかった。

白取さんの言うとおり、
昔から日本の仏教界は、
中国から中国語で伝わったその教えを、
自分たちの国の言葉に翻訳して人々に分かりやすく説明する努力を
怠ってきた。
だから「縁起」や「空」といった仏教用語は、
いまだに、
そのままの形で日本人に理解できる言葉にはなっていない。

そこで白取さんは、
自身の専攻分野であるドイツ哲学の用語である、
「実体」や「現象」といった言葉を使い、
これを説明しようとしたわけである。
(白取さんは獨協大学外国学部ドイツ語科卒業。
 その後ドイツのベルリン自由大学に入学して哲学を学んでいる)。

しかし、これまたやはりよくわからない。
「『空』とは、決して存在の『無』を意味する言葉ではなく、
 実体の『無』を意味すると同時に、
 現象の『有』を意味している言葉」とか、
「現象が相互に限定したり、
 依存したりすることによって」、
「実体がないのに……現象が生じ」るのだ、などと言われても、
こちらとしては面食らうばかりで、
何も得るものがない。

結論から言おう。
「空」という概念を「実体がない」という日本語に翻訳するのは、
かなりまずいと僕は思う。
というのも、
白鳥さんが専門とするドイツ哲学業界における「実体がない」という言葉と、
僕たちが普段、日常生活の中で使う「実体がない」という言葉とでは、
大きく意味が食い違っているからだ。
そこのところの説明のないまま、
ドイツ哲学の感覚で「実体」という言葉を使われたら、
僕たち普通の日本人には理解不能な文章が
できあがってしまうことになる。
上に記した引用文はその典型例と言えるだろう。


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by imadegawatuusin | 2007-11-26 15:36 | 仏教

■生者に尻を向けて経を唱える現代の僧侶
「日本の僧侶たちは、
 仏教の言葉を分かりやすい日本語にする努力を
 怠ってきた」
白取春彦さんは、
本書・『仏教「超」入門』の中で主張している。
そしてそれが、
「仏教が難解に思われる一因でもある」という(本書40ページ)。

確かにその通りだろう。
葬式などでお坊さんがやってきて、
お経をあげて帰ってゆく光景をよく目にするが、
そこで唱えられているお経は日本語ではない。
ブッダ(=お釈迦さま)の言葉(とされているもの)を漢語、
つまり古代中国語に訳したものをそのまま、
日本語に翻訳することなく読んでいる。

だから例えば、

ブッセーツマーカーハンニャーハーラーミーター

なんてお経を聞いても、
こっちにはさっぱり意味がわからない。
いや、お坊さんにはそもそも、
「こっち」にわからせようという考えそのものがないのではないか。
その証拠にお坊さんは、
お経を唱えているあいだ、
決して「こっち」を見ようとはしない。

「話をするときは相手の目を見て話せ」とはよく言われることだが、
お坊さんはお経を唱えているあいだ、
僕たちの目を見るどころか、
僕たちに尻を向けている。
では、誰のほうに目を向けているのか。
それは、死者の遺影や位牌である。
お坊さんは死者に向かってお経を唱えている。
逆に言えば、
生きている僕たちから目を背けている。

これは、本来の仏教のあり方から考えればおかしなことだ。
なぜならブッダの教えは、
何よりも「この現実」を最重要視するものであったからだ。

そのことを示す有名な話が
ブッダの「毒矢のたとえ」である。
本書にも掲載されている。
ちょっと長いが、ぜひ読んでほしい。

それは、ブッダがある弟子から、
「人は死後も存在するか、否か」と問われたときの話である。

この質問への答えをブッダは捨ておいたのだが、
弟子は執拗に食い下がった。
そこでブッダはしかたなく、
次のように返答した。

ある青年が毒矢に射られたとしよう。
すると、
連れの青年が医者を呼んで治療を頼もうとした。
ところが、
矢の刺さった青年がこう言った。

「その前に、
 この毒矢がどこから飛んできたか知りたい。
 どんな素性のどんな名前の、
 どのくらいの年齢の人がこの矢を放ったのか知りたい。
 また、
 この矢の材質が何であるか、
 毒の材料がどんなものなのか、
 それらがはっきりするまで矢を抜いてはならない」

そして、
この青年の体に毒が回って死んでしまった。

死後がどんなだろうと聞きたがるのは、
この青年の疑問とまったく同じではないか。

その間に、
この世で修めるべきことがおろそかになって、
何も得ることなく、
ついには死んでしまうではないか。

まずしなければならないのは、
死後がどうであるかを知ることよりも、
この現世で悟りを得ることではないか。(本書117~118ページ)


ブッダが求めたものは
「あの世」で幸せになることではなかった。
そうではなく、
「この世」の苦しみや理不尽に対する解決策を見出すことが
ブッダの求めたものだったのだ。

だからブッダは、
「人は死んだ後にはどうなるのか」とか、
「世界はどうやって始まったのだろう」とか、
そういった類の推測にうつつを抜かすこと自体を拒否した。
そういった類の推測はいずれも、
「この人間世界でより良く生きてゆくこと」とは無関係であり、
また、
それに対する、確かな根拠や経験に裏付けられた回答を追究するには、
人間の一生はあまりにも短いと
彼は知っていたからだ〔注1〕。
上に引用した「毒矢のたとえ」は、
そのことを鮮やかに示している。

ブッダの教説の中心は生きた人間である。
この世における人間対人間の正しい関係の確立こそが、
彼の追究した事柄だった。
だから、
「ありがたいお経」は死んでから聞いても意味がない。
そもそもお経は、
ブッダが生きる人々に対して語ったものであって、
死者に向かって説いた経など一つも存在しないのである。

〔注1〕東洋では儒教の祖・孔子も同様に、
「未(いま)だ生を知らず、
 いずくんぞ死を知らん」(『論語』通番264、「先進篇」11)、
つまり、
「生きることの何たるかも分からないのに、
 どうして死のことが分かろうか」と戒めている。


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by imadegawatuusin | 2007-11-25 15:26 | 仏教

――実は驚くほど新鮮で、実際的なブッダの教え――

■仏(ブッダ)は神様ではない 
 ただ悟った人間である

仏教ほど誤解されている宗教はない。
俗に「神様仏様」などといって、
願い事をお祈りする対象として
「仏様」という存在が捉えられていたりする。
白取春彦さんの『仏教「超」入門』(PHP文庫)は、
そのような「これまで安易にイメージされてきた仏教」を見直し、
「本来の仏教」の真髄を伝えようという本である。

本書における著者・白取春彦さんの立場は明快である。

仏教の仏とは真理を悟った人間のことをたんに指すだけで、
神のような超越的存在ではないのです。(本書4ページ)


もともと「仏」(ブツ)という言葉は、
古代インドの言葉であるサンスクリット語で
「悟った人」という意味を表わす「ブッダ」のことだ。
だから仏は神様ではない。
神通力をそなえた超人でもない。
ただの人間である〔注1〕。
けれど、
この人間世界の道理を悟っている。
そしてその結果、
正しい生き方を心得ており、
正しい生活を送っている。
そんな人が「仏」である。

したがって「成仏」とは、
人間が何か特別な存在に変化することをいうのではない。
まして生きている人間が死ぬことでもなければ、
死後の出来事をいうのでもない。
仏とは、
生きた人間から隔絶した神のような存在ではないのである。

それなのにどうして、
「神様仏様」になってしまったのだろうか。
それは、
仏教の教祖である
お釈迦さま=ブッダの後代の弟子たちが、
自分たちの遠い遠いお師匠様の偉大さを強調するため、
幼稚きわまる伝説を次から次へとでっち上げたためである〔注2〕。

お釈迦さまは生まれてすぐに七歩歩き、
「天上天下唯我独尊」と唱えたとか、
そういった類の実に馬鹿馬鹿しい作り話を
聞いたことがある人も多いだろう。
そうしてまた、
このような話ばかりを聞いていると、
まるでお釈迦さまは、
何やら人ならぬ神秘的な力をもった
神様か何かのように思えてきたりするものだ。
そしてそれが高じれば、
仏様をかたどって作られた像(いわゆる仏像)に向かってお祈りすると
願い事が聞き届けられるといったような程度の低い俗信が
生まれてくることになってしまう。

しかし、
本書の著者・白取春彦さんはこれに対し、

ブッダをあまりにも神格化して考えるのは、
ブッダが何度も強調して排することに努めた「極端なこと」に
抵触することになるだろう。(本書21ページ)


と、しっかりと指摘している。
白取さんも言うとおり、

教えの徹底した実際性や、
高齢になって最後は食中毒で死んだことなども考えれば、
ブッダはわたしたちと同じ人間であったと分かる(本書21ページ)


のである。
〔注1〕ブッダも一人の人間なのだということは、
インド仏教復興の祖・B=R=アンベードカルも、
その著書・『ブッダとそのダンマ』(光文社新書)のなかで
次のように強調している。

ブッダは自分自身とそのダンマに神性を求めなかった。
それは人間による人間のための発見であり
天啓ではない


いかなる宗教的開祖も
自分あるいは自分の教えに神性を要求する。
モーゼは彼自身に神性を求めなかったが、
彼の教えには神性を要求した。
彼は信者たちに、
もし乳と蜜の国へ行き着きたければ、
エホバの教えである自分の教えを受け入れよといった。
キリストは自ら神の子を名乗り、
当然ながらその教えは神聖なものとされた。
……

ブッダは
自分自身にも自分の教義にも
そのような要求をしなかった。
彼は、
自分は諸々の人間の一人であり
自分の教えは人間に対する人間の言葉なのだと
明言した。
彼は自分の言葉の不謬性など
決して求めなかった。
……
それ(筆者注:=ブッダの言葉)は
人間の普遍的経験に基づき、
誰しもがその教えに
疑問を持ち、
確かめ
どのような真実が潜んでいるかを見出すことが
できるものだといった。
自分の宗教をかくも大胆な挑戦に晒した開祖は
かつて存在しない(第3部第1章-3)


ブッダは、
自分の「悟り」が本物なのか偽物なのか、
人々が疑い、確かめようとすることさえも
奨励していたのである。
よって真の仏教徒は、
「ブッダのお告げに盲従する」のではなく、
「ブッダの教えに学ぶ」というのが正しい態度となる。

〔注2〕後世になるほど教祖を神格化して祭り上げる傾向は、
仏教に限らずどの宗教にもあるようだ。
イエスは、
偉大なる神と比べれば
自分自身もまた小さな存在に過ぎないと
はっきり説いたにもかかわらず(「ヨハネによる福音書」14章28節)、
後に作られた「三位一体」なる教義によって
神そのものと一体化されてしまった。
イスラム教のムハンマド(マホメット)も、
自分はあくまで「ただの人間」であり、
数ある預言者の一人にすぎないことを強調した(『コーラン』17章93節)。
にもかかわらず彼の死後、
弟子たちは他の宗教などから引き出した伝説を彼の生涯に付け加え、
飾り立てる作業を始めた。
(ムハンマドの心臓は
 彼が16歳のときに神によって取り出されて洗浄されたので、
 彼は決して間違いを犯すことがなかったのだなどという伝説は
 その一つであろう)。
弟子というものは、
自らの師を神格化することで、
自分の権威を高めようとする傾向があるらしい。


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by imadegawatuusin | 2007-11-24 15:18 | 仏教

富は蔵でなく、心に積め

――日蓮とキリストの財産観――

■蔵の宝より身の宝、身の宝より心の宝
仏教・日蓮宗の創始者である
鎌倉時代の僧・日蓮の言葉に、
「蔵の財(たから)より身の財(たから)すぐれたり
 身の財(たから)より心の財(たから)第一なり」
(「蔵の宝」より「身の宝」の方が優れており、
 「身の宝」より「心の宝」こそが第一である)
という言葉がある(「崇峻天皇御書」『新編日蓮大聖人御書全集』1173ページ)。

キリスト教の教主・イエスは
「富は、天に積みなさい」と言ったが〔注1〕、
いわゆる「天国」の存在を信じない唯物論者である僕には、
『富は心に積みなさい』の日蓮の言葉の方が
よりしっくりくる感じがする。
〔注1〕キリスト教の聖典・『新約聖書』の
「マタイによる福音書」に、次のようにある。
「富は、天に積みなさい。
 そこでは、
 虫が食うことも、
 さびが付くこともなく、
 また、
 盗人が忍び込むことも
 盗み出すこともない。
 あなたの富のあるところに、
 あなたの心もあるのだ」(「マタイによる福音書」6:20~21)。
本文では日蓮の言葉を引き合いに出して少し否定的に扱ったが、
「あなたの富のあるところに、
 あなたの心もある」というのは
非常に鋭い人間観察であると思う。
確かに、
限られた収入をその人が一体何に使うのかということは、
その人の心の置き所を如実に映し出すものだ。
もしその人が、
収入の大きな部分を労働組合へのカンパにあてているとすれば、
その人の心は労働運動の前進にある。
慈善活動への寄付にあてているとすれば、
その人の心は社会福祉にある。
美食に巨額の金をつぎ込んでいるとすれば、
その人の心は食欲にあり、
パチンコに大金をつぎ込んでいるとすれば、
その人の心はギャンブルにある。
by imadegawatuusin | 2007-07-16 22:39 | 仏教

■「学会の天敵」新潮社から出た本のはずが……
島田裕巳さんの『創価学会』は新潮新書の1冊である。
つまり、新潮社から出版されている。

知っている人は知っていると思うが、
創価学会と新潮社は非常に仲が悪い。
『週刊新潮』などを読むと、
しょっちゅう創価学会のことをボロクソに書いた記事が出てくるし、
逆に創価学会系の『潮』や『第三文明』などを読むと、
毎号のように『週刊新潮』のことを
「人権侵害常習誌」などと無茶苦茶にけなしている。

両者とも電車に中吊り広告をよく出しているので、
通勤・通学途中に見て、
知っている人も多いのではないか。
このようなものばかり見ていると、
両方とも、
ほとんど感情的になっているのではないかというような感じすら
受けてしまう。

やれ『週刊新潮』○月○日号の記事は最高裁で断罪されたとか、
やれ創価学会は重箱の隅のほんの些細な間違いをあげつらって、
あたかも記事全体がデタラメであるかのように宣伝してるだの……。
部外者には、
もはや何がなんだかさっぱりわからない状態になっている。

そこで、
話は元に戻るが、
この本は新潮社から出版されている。
当然 創価学会のことを
クソミソにけなした本なのだろう……と思って読み進めてみた。
が、意外なことに、
僕はこの本を読み終えたとき、
自分の中の「創価学会アレルギー」とでもいうべきものが
薄らいでいることに気がついた。
少なくともこの本を読む前と比べれば、
創価学会という宗教団体に対する好感度が
確実に上昇している自分に気付いたのである。
これは意外な体験だった。

この本の著者である島田さんは、
本書の中で繰り返し、
次のような批判を述べている。

創価学会については、
これまで数多くの書物が刊行されている。
……しかし、
その多くは、
創価学会のスキャンダルを暴こうとするもので、
客観的な立場から
創価学会についての情報を
提供するものにはなっていない。(本書18ページ)

創価学会とは何かについて、
国民の間に広く知識が行き渡っているとは言えない。(本書190ページ)


つまり、
『創価学会の指導者たちが
 裏でこんな悪いことをしていた』的な報道はあっても、
では一般の創価学会員たちはどうしてそのような宗教を信じ、
何に惹かれて活動を続けているのか、
創価学会という宗教団体は一体どのような教義を持ち、
具体的にどのような活動をしているのか……という基本的な情報を、
客観的な立場から
ごくまっとうに解説した本が見当たらない、ということなのだ。

そういえば以前、
自民党の武部幹事長が、
『日本では共産党員も創価学会員も、
 正月には神社に初詣に行く』などと放言し、
後に陳謝させられるという騒動があった。
公明党と組んで連立政権を構成している
自民党の幹事長でさえ、
創価学会の信仰について
浅はかな理解しか持っていないのだという事実を
露呈した事件であったといえる。

創価学会を信仰するのもいい。
批判するのもいい。
だがいずれの立場を取るにしても、
まずは「創価学会とは何か」という基本的な部分を
きちんと押さえておかなければそもそも話にならないはずだ。

本書はそのための好著である。

【本日の読了】
島田裕巳『創価学会』新潮新書(評価:4)
by imadegawatuusin | 2006-05-25 10:40 | 仏教

「悟り」とは何か

本来、仏教における「悟り」とは、
神秘めいた超常体験のことではない。
この世における「あたりまえの道理」を
きちんとわきまえることを指す。

《参考サイト》
「白取春彦『仏教「超」入門』について」
by imadegawatuusin | 2006-05-02 15:36 | 仏教

『般若心経』を日本語で

うちの家では昔、
僕の祖母が朝、
仏壇に向かって『般若心経』を唱えているということがあった。

「ブッセツマーカーハンニャーハーラーミーター」
とやるのだが、
それがどういう意味なのかは
さっぱりわかっていなかった。
おそらく、祖母自身、
ほとんどわかっていなかったのではないだろうか。

意味のわからないお経を、
呪文のように唱えることに、
一体どんな意味があるのだろう。

「お経を読めばご利益がある」とか
「功徳になる」とかいうのは
実に馬鹿らしい神秘主義のきわみであって、
仏教の始祖である釈迦自身、
自分の説いた教えがそんな風に「呪文」と化してしまうのは
望んでいなかったはずだと僕は思う。

ありがたいお経は、
死んでから聞いても意味がない。
生きているうちに、
生きている人間がわかる言葉で読まなければ仕方がないと思うのだ。

以下は、
僕にとってもっとも身近なお経である『般若心経』の、
僕なりの解釈とでもいうべきものだ。
毎朝『般若心経』を唱えているという方は、
明日からはぜひ、
訳のわからない古代中国語でではなく、
こちらのバージョンで唱えてほしい。


■お釈迦さまの説かれた偉大な般若波羅蜜多心経
「観音菩薩は、
 深遠な智慧を完全に掌握したとき、
 物理的な現象や精神の作用は
 すべて相互の関係によって成り立っていると見抜かれて、
 一切の苦悩を超越された。

 舎利子よ。
 物理的な現象は相互の関係によって成り立っており、
 相互の関係こそがまさに物理的な現象なのだ。
 物理的な現象はすなわち相互の関係であり、
 相互の関係とはすなわち物理的な現象である。
 私たちの精神の作用もまた、
 このように相互の関係によって成り立っているという点において、
 何の違いもないといえる。

 舎利子よ。
 この世のあらゆる法則も、
 すべて相互の関係によって成り立っている。
 すべての存在は根源的には相互の関係によって成り立っており、
 それ単独で生じたり滅したりするものではなく、
 またそれ単独で善いものであったり悪いものであったりすることはない。
 それ単独で増えたり減ったりするものでもないのである。
 
 もちろん、
 『相互の関係』というものそのものは、
 物理的な存在でもなければ精神の作用でもなく、
 感覚や意識で直接感じ取れるものではない。
 『相互の関係』というものそのものは、
 かたちもなく、音もなく、
 香りも味もなければ感触もなく、
 あるいは感性で捉えられるものでもない。
 目の領域から意識の領域に至っても、
 これを直接捉えることはできないのである。

 『心の迷い』というものも、
 決してそれ単独で存在するというわけではない。
 だがそれは、
 『心の迷い』が存在しないということは意味しない。
 『老い』や『死』も、
 それ単独で存在するというわけではないが、
 だからといって
 『老い』や『死』というものがなくなるというわけでもない。

 私が今までに説いた真理も、
 決して絶対的なものではないわけだ。
 大体、
 『知る』とか『得る』とかいったこと自体、
 関係の上でしか成り立ちえないことである。
 『得る』ということが絶対的なものではなく、
 そして求道者は深遠な智慧に依拠して生きているので、
 その者は心が束縛されるということがない。
 心が束縛されるということがないから
 何かを恐れることがなく、
 迷いの世界を離れてその境地を楽しむのである。

 過去・現在・未来の仏たちも、
 この深遠な智慧に依拠するからこそ、
 完全な悟りに達することができたのである。

 それゆえに、
 人々は次のように知るべきなのだ。
 深遠な智慧は、
 一切の苦悩を取り除く偽りのない真実であるがゆえに、
 神秘的で、明らかで、この上なく、比較しうるものがない
 真言であるといえる。
 その深遠な智慧の真言をここに説こう」

こうしてお釈迦様は、
その真言を次のように説かれた。



至った者よ、
至った者よ、
悟りの世界に至った者よ、
悟りの世界に完全に至った者よ、
悟りよ、
幸あれ。


と。

《参考サイト》
「白取春彦『仏教「超」入門』について」
by imadegawatuusin | 2005-11-06 20:38 | 仏教

「空」とは何か

■「空」=「実体がない」=「絶対でない」 
「空」という仏教用語がある。
しばしば「全てのものには実体がない」という意味だと説明されるが、
僕は、この説明がかなりの誤解を生んでいるのではないかと思っている。

問題は「実体がない」という言葉の意味だ。
僕たちが普段、日常生活の中で使う「実体がない」という言葉と、
哲学・宗教用語としての「実体がない」という言葉とでは、
大きく意味が食い違っている。

普通、世間の人々は、
「実体がない」という言葉を聞けば、
「実は存在しない」とか「見せかけだけが存在する」という意味だと思ってしまう。
「○○という会社は単なるペーパーカンパニーで実体がなかった」
というような具合に使用する。

これに対し、
哲学・宗教用語としての「実体」という言葉は、
「他の何者からも完全に独立して存在する性質」という意味をあらわす。
「絶対的な性質」と言い換えることもできよう。

よって、
仏教関係の本に「実体がない」という言葉が出てきたときは、
とりあえずその部分を「絶対でない」と読み替えておくと
わかりやすくなることが多い。

より正確に説明すると、
「空」とは、
「全てのものの性質は、
 そのものの性質として他から完全に独立して存在するのではなく、
 他のものとの関係のなかで
 はじめて そのものの性質として成立する」
という考え方のことである。

「全てのものは移り変わる」との意味もあるとの主張もあるが
(日本ではむしろこちらのイメージのほうが強いが)、
これは二義的な意味に過ぎない。
全てのものの性質が、
他のものとの関係によってはじめて成立するものである以上、
他のものから何の影響も受けず、
たとえ周りが変わっても その有り様が永遠に変わらないものなど
在りうるわけがないからだ。
(詳しくは
 [白取春彦『仏教「超」入門』について(その4)]を参照のこと)

《参考サイト》
白取春彦『仏教「超」入門』について
by imadegawatuusin | 2005-10-27 17:08 | 仏教