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靖国神社問題について

8月15日は終戦記念日である。
魂の不滅も天国も信じることのできない僕には、
先の大戦で命を落とされた方々の
冥福(=冥界での幸福)を祈ることはできない。
ただ、
戦争によって命を奪われた人々・
失わざるを得なかった人々のことを思い、
二度と戦争の惨禍を繰り返させまいと
心に誓うだけである。

8月15日はまた、
国会議員や閣僚の靖国神社への参拝が
話題となる日でもある。
僕は2年前、
当時話題になっていた
小泉首相の靖国神社への参拝問題について
次のような文章を書いた。

僕は、
信教の自由は百パーセント
守られなければならないと考えている。
どこのどいつがどんな神様を拝もうと、
それは一切自由である。
したがって、
一個人小泉純一郎氏が麻原彰晃を拝もうと、
東条英機を拝もうと、
そんな事は知った事ではない。

もちろん、
公式参拝となれば話は別だが、
一個人小泉純一郎氏がどんな宗教を信じても、
僕が文句を言う筋合はどこにもないと考えている。

ただし、
もし一個人小泉純一郎氏が
オウム真理教の神殿を参拝したりした場合、
オウム事件の被害者達から
猛烈な反発をくらう事は覚悟しなければならない。
それでもいい、と言うのなら、
僕は別に止めはしないが、
小泉純一郎氏がまともな人物であるならば、
まさかそのような事はしないだろうと
僕は確信している。

同様に、
もし一個人小泉純一郎氏が
靖国神社を参拝したりした場合、
先の大戦の犠牲者達から
猛烈な反発をくらう事は
覚悟しなければならない。
それでもいい、と言うのなら、
僕は別に止めはしないが、
小泉純一郎氏がまともな人物であるならば、
国策を誤り、
多くの国民を
苦しみのどん底に落し入れた人物を祀る神社に
参拝するなどと言う事は、
まさかしないだろうと僕は確信している。

幸い、
小泉純一郎氏は
国民の八十パーセント以上から
支持されるほどの人物である。
支持率から推測するに、
史上まれにみる偉大な指導者であるに違いない。
さぞかし深い見識と
的確な判断力をお持ちでいらっしゃるのであろう。

間違っても、
誤った国策の被害者であり、
戦争行為の加害者として
死んでいかざるをえなかった戦死者達を
「英霊」としてほめ讃えるような人物では
ないはずだ。(月刊『噂の真相』2001年9月号134ページ)



読み返してみて思い出したのだが、
2年前には小泉政権の支持率が
80パーセント以上もあったのだ。
今から考えれば
あのときの世間の空気は
どこか異常だったんじゃないかという気がする。
(僕自身、
 こんな「誉め殺し」みたいな文章しか
 書くことができなかったのだから、
 到底ひとのことは言えないのだが。
 反省反省……)。

とはいえ、
靖国神社に対する僕の考え方は、
基本的にはこの頃から大して変わっていない。
僕は決して、
国会議員や閣僚が
靖国神社に参拝すること自体を否定はしない。
(また、
 たとえ相手が議員であろうと大臣であろうと、
 その人個人の内心・信仰心に
 僕ごときが踏み込むことなど
 できるわけがないとも思っている)。
あとは、
どのような国会議員・閣僚が
靖国神社に参拝したのかを
しかと記憶にとどめた上で、
来るべき選挙での投票行動に
生かしていこうと思うだけだ。

ところが、
靖国神社を信仰する個人個人の信仰心を
国家権力でもって踏みにじろうとする政治家がいる。
いわゆる「A級戦犯分祀論者」の方々だ。
「A級戦犯」さえ「分祀」すれば、
中国・韓国などの「外圧」が
弱まるのではないかというのである。

しかし、
国家権力が特定の宗教団体に対し、
「この神様と、この神様と、
 この神様はケシカランから、
 さっさとどっかへ移してしまえ」などというのは、
れっきとした宗教弾圧に他ならない。
東条英機を祀ろうと、麻原彰晃を祀ろうと、
アドルフ=ヒトラーを祀ろうと、
それはその宗教の自由である。
もちろん市民一人一人には、
宗教を信じる自由があるのと同様、
宗教を批判する自由もある。
だが、
たとえ圧倒的多数の市民によって排斥され、
忌み嫌われているような思想・信仰であったとしても、
その思想・信仰そのものに
国家権力が介入することは許されない。

僕は、
国家と宗教は
完全に切り離されるべきだと考えている。
当然、
特定宗教への首相の公式参拝等にも
断固反対である。
しかし、
「A級戦犯分祀」論の害悪は、
首相の公式参拝の比ではない。
首相の公式参拝等は、
一般国民に直接、被害を与える行為ではない。
だが、
国家権力が特定の神様のあり方に
ケチをつけるような事態が起きれば、
その宗教の信者の信仰心を
直接的に深く傷つけることになる。

宗教法人・靖国神社は
国家権力のしもべではない。
総理大臣の都合によって
信仰を曲げさせられる筋合いは
どこにもないのである。

僕は、
その団体の思想や教義がどのようなものであれ、
あらゆる政治・宗教団体への
国家権力の介入・弾圧に反対する。
それは、
たとえその団体がオウム真理教であれ、
パナウェーブ研究所であれ、
宗教法人・靖国神社であれ変わりはない。

以上の立場から僕は、
いわゆる「A級戦犯分祀論」に反対する。
『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.54より転載)


【参考記事】
靖国問題:国は信仰を裁いてはならない
# by imadegawatuusin | 2003-08-18 20:13 | 政治

さくらと不可解な同人誌(CLAMP『CCさくら』)

――『カードキャプターさくら』と性的少数者――
さくらと不可解な同人誌(CLAMP『CCさくら』)_f0104415_18115037.jpg

『カードキャプターさくら』という漫画がある。
講談社の少女漫画雑誌・『なかよし』に連載されていた作品だ。
NHK BSやNHK教育テレビでアニメ化もされたから、
知ってる人もいると思う。

主人公は小学4年生の木之本桜(きのもと さくら)。
この子がいわゆる「魔法少女」だ。
魔法少女もののお約束どおり、
彼女にはお目付け役の小動物がいる〔注1〕。
猫みたいで熊みたいな顔をした
「ケロちゃん」と呼ばれるぬいぐるみ(?)だ。
そして彼女には、
「秘密の共有者」である親友がいる。
大道寺知世(だいどうじ ともよ:小4)である。
さらに さくらには
木之本桃矢(きのもと とうや:高2)という兄がいて、
さくらは桃矢の級友・月城雪兎(つきしろ ゆきと:高2)に
恋心を抱いている……と、ざっと説明すればこんな話だ。
〔注1〕なぜだかよくわからんが、
必ずと言っていいほど魔法少女は
お供のペットを連れている。
『セーラームーン』のルナ。
『姫ちゃんのリボン』のポコ太。
『ひみつのアッコちゃん』のシッポナ……。
名前は忘れたけど、
『ミンキーモモ』のお供なんて
確か犬・猿・鳥だった。
今にして思えば桃太郎である。

さて、
今回 僕がまず取り上げるのは
この作品そのものではない。
ある一冊の、
『カードキャプターさくら』の
パロディー同人誌についてなのだ。
この同人誌に収録されているパロディーの中に、
次のようなやり取りがある。

  ケロ  「わい 前から思とってんやけど…
        雪兎はん 年中桃生はん(酒井注:原文ママ)に
        つきっきりや
        どうかんがえてもさくらより
        桃生はんの方が好きみたいやで」

  さくら 「ひっど~い ケロちゃ~ん」

  (酒井注) ケロの顔の上には
        「しんけんっ」という文字が浮かび上がり、

  ケロ  「結論から言うと…
        あいつら絶対ホモや!!」
      (「ホモ」という字は大太字)

  (酒井注) さくらは
        「ガターン」という
        威勢のいい擬音とともにずっこける

そしてその後、
知世がさくらのことを好きであったことも判明し、
「ケロちゃん」が、
「さくら… 悪いこと言わん 
 雪兎はんやめて知世はんにしなはれ 
 ホモよりよっぽどカイショあるで」 と言って
話が終わるのである。

『桃矢は「ホモ」だ。
 雪兎も「ホモ」だ。
 そして知世も同性愛者だ』。
パロディー漫画の作者がこの話で言いたかったことは、
単にそれだけのことだったのかもしれない。
「同性愛者である」ということは
「みんなから笑われるようなおかしなこと」だと
この作者は単純に思っていたのだろう。
典型的な「ホモネタ」というやつだ。

今回は別に、
このパロディー漫画の作者の差別性をあげつらい、
糾弾するつもりではない。
そうではなく、
「『ホモネタ』っていうのは
 本当に面白いものなのか」ということを
純粋に考察してみたいと思うのだ。

今、
このパロディー漫画を
『カードキャプターさくら』のファンの方々に見ていただけば、
十中八九「面白くない」と答えると思う。
「どこが面白いのかわからない」という人もいるだろう。
なぜか。
それは、
このパロディー漫画には
当然のことしか書かれていないからだ。

『桃矢は「ホモ」だ。
 雪兎も「ホモ」だ。
 そして知世も同性愛者だ』。
だからどうだと言うのだろう。
そんなことははっきり言って周知の事実だ。
『カードキャプターさくら』を
12巻すべて読めばわかることだが、
桃矢は本当に男性同性愛者だし、
雪兎も本当に男性同性愛者だし、
そして知世も本当に女性同性愛者なのである。
だから、
これを読んだ僕は、
「何をいまさら当たり前のことを……」という感想しか
抱けなかった。

では、
原作『カードキャプターさくら』において、
主人公・さくらは同性愛者に対して
どのような態度で接していたのだろうか。

それを物語るよいエピソードが2つある。

1つは、
香港から李小狼(リ=シャオラン)という男の子が
さくらのクラスに転入してきたときのことである。
彼は転入早々、
さくらの想い人である月城雪兎に
「ひとめぼれ」してしまう。
つまりさくらと小狼とは
「恋のライバル」になってしまったわけだ。

そんなある日、
さくらたちの学年は臨海学習で海に行く。
そしてその夜、
宿舎を抜け出したさくらと小狼とは
浜辺で二人で語り合う。
話は当然、
月城雪兎のことになる。
そしてさくらは、
小狼もまた自分と同じように
月城雪兎を大好きなのだと悟るのだ。
その時さくらは、
彼に向かって次のように語りかけている。

  わたしも 李君も雪兎さんよりずっと年下だけど… 
  でも しょうがないよね
  好きなんだもん(4巻83~84ページ)

原作のさくらは、
同性愛者を見下したりはしなかった。
自分たちが
「雪兎さんよりずっと年下」であることは気にしても、
小狼と雪兎とが同性同士であることなどは
一切 問題にしなかったのだ。

もう1つのエピソードは、
さくらがついに想い人の月城雪兎に
愛の告白をしたシーンだ。
残念ながら、
月城雪兎はこの告白を断った。
なぜなら、
彼が一番好きな人はさくらではなく、
さくらの兄である木之本桃矢だったからである。
このことを知ったさくらは、
次のように答えている。

  お兄ちゃんいぢわるばっかだけど
  本当は優しいんです
  照れ屋だから
  すぐ またいぢわるするけど
  お兄ちゃんも
  きっと雪兎さんが一番だと思います(10巻44ページ)

  お兄ちゃんがわたしの大事な雪兎さんの一番で
  すっごく うれしいです
  でも
  もしお兄ちゃんが雪兎さんにいぢわるしたら
  呼んでください!
  わたしがお兄ちゃんやっつけますから!(10巻45ページ)

これに対して月城雪兎は次のように答える。

  ありがとう…
  きっと 見つかるよ 
  さくらちゃんが一番好きになれる人が
  その人もきっと
  さくらちゃんを一番に想ってくれるから
  そんな人ができたら教えてね
  もし
  その人がさくらちゃんを泣かせたら
  ぼくがやっつけるから(10巻44~47ページ)

このシーンを、
僕は何度も何度も読み返した。
そして、
NHK教育テレビでこのシーンが放送されたとき、
涙が出る寸前まで涙腺が緩んだ。

これらのエピソードを見たかぎりでも明らかだ。
さくらは決して、
自分の兄や想い人が同性愛者だと知ったときに、
「ガターン」という威勢のいい音を立てて
ずっこけるような子ではない。
彼女は偏見の色眼鏡で歪曲することなく、
事実を事実として受けとめることのできる
素晴らしい女の子だったのだ。
同性愛者を見下したりからかったりする思想は結局、
さくらとは全く無縁だったのである。

さてここで、
最初に取り上げたパロディー漫画の作者さんを
少し弁護しておきたい。
この同人誌が出版されたのは、
僕がいま引用した4巻や10巻が出版されるよりも
前のことだった。
だから、
ある意味では僕のこの文章は
「後出しジャンケン」なのである。
当時はまだ、
桃矢や雪兎が同性愛者であることは
必ずしも明らかではなかったし、
さくらが同性愛者にどういう態度で接するのかということも
明らかではなかった。
そして社会には、
「同性愛者であるということは
 人々に笑われるようなおかしなことであり、
 恥ずかしいことである」という風潮があった(今もある)。
このパロディー漫画の作者さんは
そうした風潮にまどわされ、
「今になってみれば的外れなパロディー」を書いてしまった
被害者であると言えなくもない。

そしてその後、
この方は質の高いパロディー同人誌を
次々と発表してゆく。
『カードキャプターさくら』の同人誌も数多く出版されたが、
その後の作品には
同性愛者を蔑むような内容は見られない。
それどころか今、
この方は他の漫画のパロディーとして、
男性同性愛を肯定的に描く作品を
精力的に発表している。
今では僕は、
このパロディー漫画作者さんの大ファンになってしまった。

おそらく、
『カードキャプターさくら』という作品に触れることで、
このパロディー漫画の作者さんの偏見は
少しずつやわらいでいったのだと思う。
偏見によって凍りついてしまった心を溶かしてくれる、
こんな暖かい作品にリアルタイムでめぐり合えたことを
僕は本当に嬉しく思っている。
最後に、
僕が3年前にあるアニメ雑誌に投稿し、
掲載していただいた投書を引用して終わりたい。
(ちなみに『CCさくら』とは
 『カードキャプターさくら』の略語)。

  同性同士の愛情―。
  それは『CCさくら』の中に
  さりげなく織り込まれていた。
  今までにもこのテーマを描いたドラマ、映画は
  さほど珍しいものではないが、
  『CCさくら』は「子ども番組」であり、
  NHK教育テレビで現在なお放映中である。
  従来、
  日本の「子ども番組」において、
  このテーマをあつかったものはほとんど見られない。
  ところが、『CCさくら』において、
  同性同士の愛はごく当たり前にあった。
  登場人物はみな、
  差別するでも特別視するでもなく、
  自然体で接していた。
  『さくら』の社会は理想の社会。
  現実には、
  「同性同士の愛情」は
  まだまだ公然と認知されてはいない。
  けれど、
  公共放送が「教育テレビ」でこういった作品を放送したことを、
  僕は大きな進歩だと思う。
  「変態的だ」とか「倫理に反する」などのクレームが
  あまりつかなかったらしいことも評価したい。
  マイノリティー(少数派)への理解と尊重、
  そして真の意味での自由。
  人間として守るべきマナーを大切にした『CCさくら』は、
  素晴らしい娯楽番組であると同時に
  みごとな教育番組でもあったのだ。
  (『アニメディア』2000年8月号73ページ)

『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.24より転載)
 
 
【参考記事】



# by imadegawatuusin | 2003-02-03 05:01 | 漫画・アニメ

クローン人間は人間である

新興宗教団体「ラエリアン・ムーブメント」〔注1〕は、
米国出身の30代の女性が
クリスマスにクローン人間を出産すると発表した。
新聞報道などによるとこの女性は、
夫との間に子供ができなかったため、
自らの体細胞を使ってクローン技術で妊娠したという〔註2〕。

現段階では、
彼らは科学的に検証可能なデータを示しておらず、
事の真偽は必ずしも明らかではない。
専門家の間では懐疑的な見方が強いという。

ただ、はっきりと言えることが一つある。
それは、
「クローン羊やクローン牛を誕生させることが可能となった今、
 いつクローン人間が生まれてきてもおかしくない」ということだ。

しかし、
すべての人間が有性生殖によって生まれることを
当然の前提としてきた今の社会には、
クローン人間に対するさまざまな偏見がはびこっている。
まるでクローン人間は
人間の尊厳を脅かす存在であるかのような物言いまでが
大手を振ってまかり通っている。
本当にクローン人間は、
人間の尊厳を脅かす存在といえるのだろうか。
〔注1〕「他の惑星からきた科学者たちが
DNAを使って地球上のすべての生命を創造した」と彼らは主張しており、
いわゆる「神」の存在は信じない。
そのため彼らは「宗教団体」と呼ばれることを好んでおらず、
自らは「無神論で非営利の精神的団体」と称している。

〔註2〕「ラエリアン・ムーブメント」は、
クローン技術の安全性が十分に確認されたとは言えない現段階で
クローン技術を人間に適用した。
このようなやり方に対しては、
『噂の真相』の投書欄(2001年3月号・2001年5月号)や
高校の学年通信(『天王寺玉手箱』第67号)を通じて
僕は一貫して反対を表明している。


(1)クローン人間は「コピー人間」ではない
クリスマスに生まれてくるとされるこの赤ちゃんを、
「世界初のクローン人間」と呼んだマスコミがいくつかあった。
しかし彼女は、
厳密に言うと「世界初のクローン人間」ではない。
実を言うと、
クローン人間なんて世界中どこにでもいる。
大昔からいたし、
この文章を書いている今日も、
世界のどこかで必ず生まれているはずだ。

そもそもクローンとは、
「同じ遺伝子を持つ生物」のことである。
つまり、
世界に同じ遺伝子を持つ人間が2人いれば、
彼らは立派な「クローン人間」ということになる。
本当にそのような人たちがいるのだろうか。

実は、いる。
「一卵性双生児」といわれる人たちだ。

「双生児」とは、
平たく言えば双子のことだ。
双子なんて、
さして珍しくもないだろう。
ただ、
この双子には2種類ある。
一卵性の双子と二卵性の双子である。

一卵性の双子とは、
受精卵が何らかの事情で母親の胎内で分裂し、
それぞれがそのまま別々に成長して生まれてきた
双子のことだ。
同じ受精卵から分裂したので、
両者は互いに同じ遺伝子を持っている。
つまり彼らはクローン人間なのだ。
それに対して二卵性の双子とは、
2つの別々の卵子が2つの別々の精子とそれぞれ受精し、
それぞれが成長して生まれてきた双子のことだ。
当然この場合、
両者は別々の遺伝子を持っている。
2人はほぼ同時に生まれてくるが、
遺伝的にはごく一般の兄弟姉妹と変わらない。

二卵性の双子はよくいるが、
一卵性の双子もそれほど珍しくはない。
ノルディックスキーの荻原兄弟の顔がそっくりなのも、
彼らが一卵性の双子、
つまりクローン人間だからなのだ。

「ラエリアン・ムーブメント」などが誕生を目指しているクローン人間も
一卵性の双子も、
どちらも生物学的にはクローン人間なのである。
いま話題となっている前者のクローン人間を
特に区別したいときには
「体細胞クローン人間」と呼ぶ。
ただ、
これでは少々長ったらしいので、
ここから以後は世間の慣例に従い、
前者を「クローン人間」、
後者を「一卵性の双子」と呼ばせていただく。

さて、
以上のことを踏まえれば、
世間でよく聞く次のような意見が
どれほど こっけいであるのかが
すぐにわかるはずである。

クローン人間が生まれると、
同じ人物が世界に2人いることになる。
そのようなことになれば、
かけがえのない唯一の存在であるはずの
人間の尊厳が失われる。


確かにクローン人間は、
その遺伝子の基となった人物
(この人物を以後、
 鍵カッコつきの「親」と表記する)と
同じ遺伝子を持って生まれてくる。
しかし、
「同じ遺伝子を持つこと」と「同じ人物であること」とは
全く別のことなのだ。
もしこれが同じであれば、
荻原健司選手と荻原次晴選手とは
「同じ人物である」ということになってしまう。
そんなおかしな話はないだろう。
彼らは明らかに、
異なる個性を持った別人なのである。

同じ時代に生まれ、
同じ環境で育つ一卵性の双子同士でさえ
別人になる。
まして、
「親」とは別の時代に生まれ、
「親」とは別の環境で育つクローン人間が
「親」と同じ人間になるはずがない。
 
クローン人間もまた、
いかなる人間からも独立した人格を持つ
「個人」なのである。
決して「親」のコピーではない。

人間の性質は遺伝子のみによって決まるのではない。
教育や、環境や、食べ物・運動……などなどの
さまざまな影響因子が絡み合って、
一人の人間を形成してゆく。
たとえ同じ遺伝子を持っていたとしても
クローン人間は、
「親」とは育つ時代や環境が異なる以上、
性格や知性に関しては
全く異なる人間にならざるを得ないのである。

(2)死んだ人間は生き返らない
上で挙げたような意見と並んでよく聞くものに、
次のようなものがある。

クローン技術が人間に応用されると、
死んだ我が子をクローン技術によって
よみがえらせる親が出てくるだろう。
そのようなことがおきれば、
人命のかけがえのなさが奪われ、
人間の尊厳は傷つけられる。


どうやらクローン人間は、
何が何でも人間の尊厳を傷つけなければならないらしい。

まず、
当たり前のことではあるが、
一度死んだ人間がよみがえることは絶対にない。
人間は、
死んだらそれでおしまいである。
ただ、
何らかの事情で
「死んだ我が子」の細胞が冷凍保存されていたりした場合、
その子のクローンを作ることは不可能ではないかもしれない。

しかし、
そのようなことをしても、
その親はおそらく期待を裏切られるだけだろう。
どんなに姿が似ていても、
そうして生まれてきた子はもう、
「死んだ我が子」ではない。
なぜなら、
クローン人間とその遺伝子の基となった人物とは
全くの別人だからである。

そもそも、
「特定個人の代用」として誕生させられるなんて、
クローン人間にしてもいい迷惑である。
クローン人間は
いかなる人間からも独立した人格を持つ個人なのである。
それなのに、
すでに死んでしまった人間の役割を押し付けるようなやり方は、
クローン人間の個性を抑圧するものであり、
断じて許されるべきではない。

許されるべきでないのはクローン人間の存在ではない。
クローン人間を「特定個人の代用」としかみなさず、
独立した個人として扱おうとしないそうした姿勢こそが
まさに「人間の尊厳を傷つける」ものなのだ。

一度死んだ人間は、
決してよみがえることはない。
クローン技術は死者を復活させる技術ではないのだということを
僕たちは改めて認識しなければならない。

(3)個性がなくても尊厳はある
ここまででは主に、
クローン人間は「親」から独立した個性を持つ
個人であることを中心に論じてきた。
クローン人間が個性や独自性を持つ以上、
クローン人間もまたかけがえのない個人であると
主張してきたのだ。
しかし僕は、
こうした考え方にも本当は疑問を持っている。
もし、
万が一クローン人間が何の個性も独自性も持たない、
単なる「親」のコピー人間であった場合は、
彼は、
かけがえのない尊厳を持った個人であるとは
認められないのだろうか。

もし僕が、
他の誰かと全く同じ性格で、
全く同じ思想を持ち、
声も体格も遺伝子も、
すべての性質が全く同じコピー人間であったとしても、
そのことによって
僕のかけがえのなさが傷つくことはありえない。
たとえすべての性質が同じでも、
彼と僕とは『明らかに違う』のである。
なぜなら僕は僕であり、
彼は僕ではないからだ。
これほど根本的な違いは他にない。
極端な話、
この『僕であるもの』と『僕でないもの』との違いに比べれば、
中核派と一水会と統一教会との違いなど
微々たるものにすぎないと思う。

僕は、
彼が痛い思いをしているときに
代わりに痛んであげることはできない。
彼がひもじい思いをしているときに
代わりに腹を減らしてあげることもできない。
僕は、
彼の人生を代わりに生きてあげることもできなければ、
彼の代わりに死んであげることもできないのである。
たとえ僕が、
世界に2つとない個性を持った存在ではなくても、
僕は僕の人生しか生きることはできない。
僕と全く同じ性格・全く同じ体質のコピー人間が生きていたって、
やっぱり彼は僕ではない。
僕が死んでしまえば、
そんなコピー人間がいるのだということ自体、
僕には感知できないし、
何の意味もなくなってしまう。
たとえ僕のコピー人間が世界に100人いたとしても、
『僕』と残りの99人とは全然違う。
僕にとっての『僕』は
間違いなく『かけがえのない存在』であり、
他の99人に代えることのできない特別な存在だ。
そして、他の99人にとっても、
それぞれ自分が『かけがえのない存在』なのだろう。

一人一人の人間は
すべてかけがえのない存在として生きている。
これは決して、
一人一人の人間が他の人にはない個性や独自性を
持っているからではない。
たとえ全く同じ人間が二人いたとしても、
それが二人である以上、
二人はそれぞれかけがえのない存在なのだ。

(4)クローン人間は人間である
「自分が病気になったときの臓器の予備として使うために
 クローン人間を作っておこう」・
「クローン人間を『本物』の人間の代わりに働かせて
 奴隷にしよう」・
「戦争になったときには
 クローン人間に自分の代わりに戦争に行かせ、
 『人間兵器』として利用しよう」……。
残念ながら、
このような考えを平然と述べる人は少なくない。

確かに、
SF映画や小説の中には
そうした内容を持つものもある。
しかし、
たとえ同じ遺伝子を持ってはいても、
クローン人間は自分の意思や人格を持つ存在であり、
「親」の所有物ではない。
このようなことが許されるべきでないのは
当然のことである。

そもそも、当たり前のことではあるが、
クローン人間は人間である。
人間である限りは、
当然 国家権力によって人権が保障されるのだ。
人間を奴隷として扱うことは憲法で禁じられている。
人間を傷つければ傷害罪に問われるし、
殺せば殺人罪になる。
この当たり前の原則が守られてさえいれば、
クローン人間が「臓器の予備」や「奴隷」・「人間兵器」などにされることは
あまり心配する必要はない。
「臓器」や「奴隷」・「人間兵器」として使える年齢になるまで
十数年間も自分のクローンを
世間から隠して育てるなどということは
現実的にはまずもって不可能である。

クローン人間は、
僕たち有性生殖人間と同じく人間なのだ。
ただ、精子と卵子で生まれてきたか、
クローン技術でうまれてきたかという
「生まれ方の違い」があるにすぎない。
人間的・倫理的な価値において
両者の間に差があるわけではないのである。
彼らの人権が保障されるべきことは、
言うまでもないことなのだ。

もしかすると、
この「裏主張」が掲載される頃には、
「ラエリアン・ムーブメント」の計画が成功し、
すでにクローン人間が誕生しているかもしれない。
僕がいま一番恐れていることは、
クローン人間に「反倫理」のレッテルを貼り付ける今の風潮が、
クローン人間に対する差別を
正当化するのではないかということだ。
このままでは生まれてくるクローン人間が、
クローン人間であるというだけで
いわれのない差別や偏見に苦しめられることになりかねない。

クローン人間は人間である。
いかなる個人からも独立した個性と人格を持つ
一人の人間である。

クローン人間が生まれてくれば僕たちは、
有性生殖人間とクローン人間とが互いの存在を認め合い、
共存し、共生してゆく社会を
築いてゆかなければならない。
『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.19より転載)
# by imadegawatuusin | 2002-12-30 03:59 | 倫理

「ソドム問題」について

12月15日に、
「ソドムとゴモラ」と題する
次のようなご意見をメールにていただきました。

ソドムとゴモラについての議論
読ませていただいています。
他の方と同じ内容のメールでしたら
ご免なさい。
私自身はキリスト教信者ではなく、
クィアですが
(かつてはレズビアンを自称してましたが、
 セクシュアリティに加えてジェンダー関係についてよく考えると、
 そもそも同性とは誰の事だという疑問が出てきて
 自分が同性愛者であるとは言えなくなってきた(笑)) 
聖書のこの部分についてははっきりと
「同性愛を否定している」と判断しています。
というのも、
ロトの家に押しかけて来た男たちを
ロトが追い払うシーンの直後に
こんな事が書かれてあるからです
(引用は、
 スタンダードな英訳であるKing James Versionです)。

Genesis 19:7
> And said, I pray you, brethren, do not so wickedly.
Genesis 19:8
> Behold now, I have two daughters which have not known man; let
> me, I pray you, bring them out unto you, and do ye to them as
> is good in your eyes: only unto these men do nothing; for
> therefore came they under the shadow of my roof.

客人である男性とのセックスを守りつつ、
「自分には男を知らない娘が2人いるから、
 好きなようにしなさい」とまで言ってます。 
ヒドい話でしょ? 
これを読めば分かる通り、
「ここでは同性愛の是非ではなく
 強姦の是非を問題としているのだ」という解釈は
不可能です。 
自分の娘に対する強姦なら
容認しているわけですからね。
最後の文を読む限り、
男性を出すのを拒否したのは
「彼らが客人だから」であって、
性別とは関係ないという解釈も可能と思われるかも知れません。 
しかしその場合、
ロトが自分の息子でなく娘の提供を申し出ている点や、
彼らの要求を「wicked」と呼んでいる点に説明が付かないので、
やはり「同性愛だから駄目」と解釈するのが
一番自然ではないかと思われます。
もっとも、
ソドムの町全体が同性愛者だったとは
到底考えられませんが、
背景に同性愛に寛容な現地の文化と
非寛容な文化の対立があったと見れば、
聖書の記述として
ソドムの町が滅ぼされた理由の1つが
「同性愛」だったとされるのは不自然ではないです。


ソドムの物語の背景に
「同性愛に寛容な現地の文化と
 非寛容な文化の対立があった」という見方には、
非常に興味をそそられました。

ただ、
「男性を出すのを拒否したのは
 『彼らが客人だから』であって、
 性別とは関係ないという解釈」が適当ではないとする理由として
「ロトが自分の息子でなく
 娘の提供を申し出ている点」を挙げられたことにつきましては
少々異論がございます。
なぜならこのとき彼の家には、
ロト・ロトの妻・ロトの娘2人の計4人と
客人たちしかいなかったと思われるからです。
家に息子はいなかったのですから、
息子の提供を申し出ることは不可能だったと思います。

その証拠に『創世記』には、
ロトの家族がソドムの町を脱出する場面が
次のように描かれています。

夜が明けるころ、
御使いたちはロトをせきたてて言った。

「さあ早く、
 あなたの妻とここにいる二人の娘を
 連れて行きなさい。
 さもないと、
 この町に下る罰の巻き添えになって
 滅ぼされてしまう。」

ロトはためらっていた。
主は憐れんで、
二人の客に
ロト、妻、二人の娘の手をとらせて
町の外へ避難するようにされた。(『創世記』19・15~16)

And when the morning arose, then the angels hastened Lot, saying, Arise, take thy wife, and thy two daughters, which are here; lest thou be consumed in the iniquity of the city.

And while he lingered, the men laid hold upon his hand, and upon the hand of his wife, and upon the hand of his two daughters; the LORD being merciful unto him: and they brought him forth, and set him without the city.(Genesis 19:15,16)


これを見る限り、
当時この家にいたロトの家族は
「ロト・妻・二人の娘」の4人であったと考えるのが
妥当でしょう。

しかしこの方もおっしゃるとおり、
これは本当に「ヒドい話」です。
ロトが本当に「義人」だったというのであれば、
「自分はどうなってもいい。
 客や家族は助けてくれ」と
言ってほしいものです。
それを彼は、
『娘はどうなってもいい』と言っているのです。
これではこの方のおっしゃるとおり、
ロトは「自分の娘に対する強姦なら容認してい」たと言われても
仕方がないと思います。

古代ユダヤ社会において、
客人を大切にしないことが
どれほど「wicked」(悪い・不道徳な)なことであったかは
前回述べたとおりです。
あとは、
読者のみなさまの判断にお任せしたいと思います。
(なお、
 今回僕は『旧約聖書』の引用に関しまして、
 日本語訳では日本聖書協会版新共同訳を、
 英語訳ではメールをお送りくださった方がお使いになった
 King James Versionを使用いたしました)。
『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.18より転載)


【関連記事】
西洋における男性同性愛者観の移り変わり
ソドムとソドミーと同性愛
# by imadegawatuusin | 2002-12-23 03:42 | 歴史

ソドムとソドミーと同性愛

先週の「裏主張」について12月10日、
求是さんから次のようなご意見を掲示板にていただきました。

今週の裏主張読みました。
主題とは関係ない、
末節的なことですが、
気になる点がありましたので一言。
酒井さんが、
ソドムの人たちが同性愛ゆえに滅ぼされたことを否定しているのか、
そもそも同性愛者であったこと自体を否定しているのか
迷うのですが、
少なくともソドムの人たちが同性愛者であったと
考えていいと思います。
『創世記』19章5節では、
ソドムの人たちがロトに
「今夜おまえのところにやって来た男たちは
 どこにいるのか。
 ここに連れ出せ。
 彼らをよく知りたいのだ」と
言っています(日本聖書刊行会版による)。
これだとよく意味は分かりませんが、
zondervan BIBLE publishers版聖書によりますと、
この部分は
「Where are the men who came to you tonight?
 Bring them out to us so that we can have sex with them」と
なっています。
つまり、
「知りたい」とは「セックスをしたい」という意味と考えて
いいでしょう。
ですから、
ソドムの人たちは同性愛者であったと考えられます。
ロトは男たちを守るために代わりとして
娘を差し出そうとしますが、
ソドムの人たちは娘には手を出しません。
しかし、
ソドムは「好色にふけり、
不自然な肉欲を追い求めたので、
永遠の火の刑罰を受けて、
みせしめにされて」(『ユダの手紙7節』)いるわけで、
同性愛が滅亡の原因の一つであったとも考えられます。
以上、どうでもいい末節的なことですが、
ご参考まで。


ご指摘ありがとうございます。
確かに前回の裏主張は、
「ソドミー」・「ソドミータ」といった言葉の由来について、
きちんとした説明もしないままに
「俗説」の一言で片付けてしまう
軽率なものでした。
読者のみなさまに深くお詫び申し上げます。

ただ、
ロトの家に押しかけたソドムの町の人々が
同性愛者であったとは
断定できないのではないかと僕は考えております。
また、
ソドムの町が同性愛を理由として滅ぼされたという説が
間違っているという僕の考えも
やはり変わることはありません。

今回は、
「ロトの家に押しかけたソドムの町の人々は
 本当に同性愛者だったのか」という問題と
「ソドムの町は本当に同性愛ゆえに滅ぼされたのか」という問題とを
前回より深く突っ込んで考えてみたいと思います。

(1)ロトの家に押しかけたソドムの町の人々は同性愛者だったのか。
求是さんによりますと、
日本聖書刊行会版の新改訳聖書では
「ここに連れ出せ。
 彼らをよく知りたいのだ」となっている部分が、
zondervan BIBLE publishers版聖書では
“Bring them out to us so that we can have sex with them”と
なっているということです。

こういうときは、
直接原典にあたってみるより他ありません。
『旧約聖書』の原典は古代ヘブライ語聖書です。
これを見ると、
それぞれの部分の原典は次の通りであったことがわかります。
ホツィエム エレーヌ ヴェネドゥアー オタム(ヘブライ語がワープロでは出ないので、カタカナで表記させていただきます)


逐語訳していきます。
「ホツィエム」とは、
主体が一人の男性であるときに使う、
「外へ出す」という意味の言葉の命令形と、
「ム」という、
語尾につける接尾語との複合語。
「エレーヌ」とは、
「~に」という意味の前置詞である「エル」と
「エーヌ」という接尾語との複合語。
「ヴェネドゥアー」とは、
「そして」という意味の接続詞である「ヴェ」と、
主体が「私たち」であるときに使う、
「知る」という意味の動詞「ヤダー」の願望形・「ネドゥアー」との
複合語。
そして「オタム」とは、
「~を」をという意味の前置詞である「オタ」と、
語尾に付ける接尾語である「ム」との複合語
……だそうです。

ですから、
直訳すると次のようになるかと思います。

おまえ(=ロト)は(来た連中を)外へ出せ。
私たちはそして(その者たち)を知りたい。


このように見ていきますと、
zondervan BIBLE publishers版聖書よりむしろ
日本聖書刊行会版新改訳聖書の方が
原典に忠実であることがわかります。
ただここで問題になるのが、
「知る」という意味の動詞である「ヤダー」という言葉は
単に「知る」というだけではなく、
「(肉体的に)知る」という意味で使われることも
あるのだということです。

この場合、
「彼らを外に連れ出せ。
 私たちはその者たちについてよく知りたい」
という意味にも取れますし、
「彼らを外に連れ出せ。
 私たちはその者たちとセックスがしたい」という意味にも
取れないわけではありません。

もし前者ならロトは、
自分の迎え入れた客人を
ソドムの人たちの尋問(と称するおそらくリンチ)から守るために
自分の娘を差し出そうとしたということになります。
もし後者なら、
自分の迎え入れた客人を強姦しようとする
ソドムの人たちの性欲を静めるために
自分の娘を差し出そうとしたことになるでしょう。
日本聖書刊行会版新改訳聖書と
zondervan BIBLE publishers版聖書との違いは
この点をめぐる解釈の違いなのです。

少なくとも、
聖書の他の箇所に、
この暴行未遂事件について
同性愛的性格があったと主張している記述はありません。
ですから僕は、
ロトの家に押しかけてきたソドムの町の人々が
同性愛者であったとは断定できないと思います。

(2)ソドムの町は同性愛ゆえに滅ぼされたのか
「ソドムの町は同性愛ゆえに滅んだ」という説を
僕は支持することはできません。
なぜならソドムの話は、
両者の合意に基づく一般的な同性愛行為について
書かれた話ではないからです。
この話は、
本来ならば大切に迎えて庇護しなければならなかった客人に対して
ソドムの人たちが集団暴行を働こうとした話なのです。

たしかに求是さんもご指摘の通り、
ロトの家に押しかけてきた男たちが同性愛者であり、
ロトに対して客人とセックスをさせろと迫っていたのだという説は
否定できないかもしれません。
しかし、
たとえそうだとしても、
それは「同性愛」というよりは
むしろ「強姦」の問題です。
相手が同性であろうが異性であろうが、
強姦が悪いことであることは言うまでもありません。
この話は、
合意の上で行なわれる
一般的な同性愛行為の是非については
何も言っていないのです。

ここで『ユダの手紙』を、
求是さんが引用なさったところより少し前の部分から
引用いたします。
(なお、
 前回僕は聖書の語句の引用に
 日本聖書協会版新共同訳聖書を使用いたしましたが、
 今回は求是さんのお使いになった
 日本聖書刊行会版新改訳聖書を
 使用させていただきます。
 ただし、
 『旧約聖書続編』(カトリックの第二聖典)につきましては、
 日本聖書協会版新共同訳聖書を
 使用させていただきます)。

主は、
自分の領域を守らず、
自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、
大いなる日のさばきのために、
永遠の束縛をもって、
暗やみの下に閉じ込められました。

また、
ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も
彼らと同じように、好色にふけり、
不自然な肉欲を追い求めたので、
永遠の火の刑罰を受けて、
みせしめにされています。(ユダの手紙6~7)


これをご覧になればおわかりいただけると思いますが、
「好色にふけり、
 不自然な肉欲を追い求めた」のは
ソドムだけではありません。
ゴモラや周辺の町々も
そうであったと書いてあるのです。
また、
これは非常に重要なことなのですが、
「好色」や「不自然な肉欲」とは
具体的にどのような行為を指しているのか、
ここには何も書かれていません。
もちろん、
それを同性愛と確定することもできません〔注1〕。

さて、
堕落した天使の例を持ち出している点でも
『ユダの手紙』と非常によく似ている
『ペテロの手紙 第二』では
次のように書かれています。

神は、
罪を犯した御使いたちを、
容赦せず、地獄に引き渡し、
さばきの時まで
暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。

(中略)また、
ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、
以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。

また、
無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた
義人ロトを救い出されました。

というのは、
この義人は、
彼らの間に住んでいましたが、
不法な行ないを見聞きして、
日々その正しい心を痛めていたからです。(『ペテロの手紙 第二』2・4~8)


これを見れば、
ソドムの町の人々の退廃に、
ロトは(ある一時ではなく)継続的に悩まされていたことが
わかります。
ソドムだけではなく
ゴモラやその周辺の町々も
「好色にふけり、
 不自然な肉欲を追い求め」ていたのだという記述と総合しますと、
『ユダの手紙』で書かれている
「好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めた」というのは、
ソドムの町の男たちが
ロトの家に押しかけてきたその時のことを指しているとは
考えにくいことがわかります。
「好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めた」というのは、
神が調査のために天使を派遣するきっかけとなった
ソドムの住民全体の道徳的退廃の一例と見るのが
妥当ではないでしょうか。
そもそも神は、
ロトの事件の以前から、
すでにソドムを罰することを
考えていたのです(『創世記』18・17~33)。

ソドムの町が滅んだ説明としては、
次の4つが挙げられるかと思います。

その1.ソドムの町が滅びたのは、
    神が調査のために天使を派遣するきっかけとなった
    ソドムの住民全体の道徳的退廃のせいである

その2.ソドムの町が滅びたのは、
    ソドムの男たちが天使たちに
    セックスを強要(または暴行)しようとしたからである

その3.ソドムの町が滅びたのは、
    ソドムの男たちが天使たちと
    同性同士でセックスをしようとしたからである

その4.ソドムの町が滅びたのは、
    ロトを除くソドムの人たちが
    神に遣わされた訪問者たちを邪険に扱ったからである

当たり前のことですが、
「その2」と「その3」とは同一問題ではありません。
「その3」は確かに同性愛の問題ですが、
「その2」は強姦(または暴行)の問題です。
どう考えても僕には、
「その1」や「その2」の説明の方が
はるかに納得しやすいのですが、
なぜか世間的には「その3」ばかりが
強調されているように思われてなりません。

『ユダの手紙』や『ペテロの手紙 第二』の記述は、
「その1」を裏付ける有力な証拠だと思います。

その他、
「その1」を根拠付けるものには、
前回あげた『旧約聖書』の『エゼキエル書』の他に
次のような史料があります。

主は、
ロトが住む町を見逃されなかった。
人々の高慢を忌み嫌われたからである。(『旧約聖書続編』「シラ書(集会の書)」16・8)


『旧約聖書続編』は、
紀元前3世紀から紀元1世紀の間に成立した
ユダヤ教の宗教的文章です。
カトリックでは「第二聖典」として重視されていますが、
プロテスタントの間には
その権威を認めない宗派もあります。
しかし、
当時のユダヤ人がソドムの滅亡について
どのように認識していたかをよく示す文章であることは
間違いありません。

「その4」については
意外に思う方がいらっしゃるかもしれませんが、
どうやらイエス=キリストは
「その4」の理由で理解していたようなふしがあるのです。

どんな町や村にはいっても、
そこでだれが適当な人かを調べて、
そこを立ち去るまで、
その人のところにとどまりなさい。

(中略)もしだれも、
あなたがたを受け入れず、
あなたがたのことばに耳を傾けないなら、
その家またはその町を出て行くときに、
あなたがたの足のちりを払い落としなさい。
 
まことに、
あなたがたに告げます。
さばきの日には、
ソドムとゴモラの地でも、
その町よりはまだ罰が軽いのです。(『マタイの福音書』10・11~15)


町にはいっても、
人々があなたがたを受け入れないならば、
大通りに出て、こう言いなさい。

『私たちは足についたこの町のちりも、
 あなたがたにぬぐい捨てて行きます。
 しかし、神の国が近づいたことは承知していなさい。』

あなたがたに言うが、
その日には、その町よりも
ソドムのほうがまだ罰が軽いのです。(ルカの福音書10・10~12)


また、
『旧約聖書続編』の『知恵の書』にも、
「その4」の説を補強する記述があります。

罰が罪人たちの上に下った。
激しい雷による警告の後のことである。
彼らはその罪のゆえに当然の苦しみを受けた。
他国人を敵意をもってひどく扱ったからである。(『旧約聖書続編』「知恵の書」19・13)


訪問者を冷遇したことが
町が滅ぼされるほどの罪なのかと思う方は
多いと思います。
しかし、
古代世界には
大都市以外には宿屋などほとんどなく
(事実、ソドムにきた天使たちも最初は野宿を覚悟していた)、
旅行者たちは
住民の善意ある歓待に
頼らざるを得ませんでした
(ジョン=ボズウェル『キリスト教と同性愛』 国文社 113ページ参照)。
訪問者を冷遇することが
いかに大きな罪とみなされていたのかは、
『旧約聖書』の次の記述をご覧になれば
うかがい知ることができるでしょう。

アモン人とモアブ人は
主の集会に加わってはならない。
その十代目の子孫でさえ、
決して、主の集会に、はいることはできない。

これは、
あなたがたがエジプトから出て来た道中で、
彼らがパンと水とをもってあなたがたを迎えず、
あなたをのろうために、
アラム・ナハライムのペトルから
ペオルの子バラムを雇ったからである。(『申命記』23・3~4)


よく考えてみますと、
ロトは自分の迎え入れた旅人を
(強姦または暴行から)助けるために、
自分の娘を差し出そうとしたのです。
これを見る限り、
当時の倫理観では「性的貞操」などよりも
「旅人をもてなすこと」の方が
ずっと大事だったのだとも考えることができます。

さて、
その他さまざまな聖書の箇所で
ソドムは悪の象徴として描かれていますが、
ソドムの住民の罪を同性愛だと特定している箇所は
一つたりともないのです。
またその聖書の中でも、
ソドム滅亡の話がある
『創世記』の成立から時代を隔てて成立したものほど
(『ユダの手紙』や『ペテロの手紙 第二』)、
ソドムの滅亡と「性的退廃」(同性愛であるとは書かれていないが)とを
結びつける傾向があることも
注目に値します。

以上を踏まえて考える限り、
「ソドムの町は同性愛がはびこったので滅亡したのだ」という説は、
後の時代に作られた俗説であると
考えるのが妥当でしょう。
そして、
たとえ同性愛とソドム滅亡との間に
関連性があるのだとしても、
それは今挙げた
「その1」・「その2」・「その4」の理由に
付随する問題にすぎなかったと考えられます。
〔注1〕『ユダの手紙』の新改訳(日本聖書刊行会版)は、
「サラコス ヘテラース」という古代ギリシア語を
「不自然な肉欲」と訳したために、
『ローマの信徒への手紙』1・26~27の印象とあいまって
「同性愛のことを指しているのだ」という印象を
与えやすくなっています。
しかし原文に
「自然」・「不自然」などという言葉は
一切使われておりません。
「サルコス」は「別の」、
「ヘテラース」は「肉体」を表す言葉であり、
英語の『新改訂標準訳』ではこの部分に、
「見知らぬ肉体」という意味であるとの脚注が
ついているということです。


最後に、
アメリカの首都・ワシントンで開かれた学会で、
ある神学者が行なったスピーチの最初の部分を引用して、
この文章を締めくくらせていただきます。

私は今日、
重い気持ちでワシントンに参りました。
というのも、
政府の高官に
ソドミーを行っている人がいるという確信が
あるからです。
上下両院にも多くのソドミーを行う人がいます。
大統領の顧問団は、
ソドミーを行う人々で一杯です。
さらに悲しいことに、
大統領自身も頻繁にソドミーを実践しているようです。
さて、
ここでみなさんに
「ソドミー」とは何かを説明したいと思います。
聖書の中でこの罪をもっとも明確に定義しているのは、
「創世記」の物語ではなく、
預言者エゼキエルの書です。
「お前の妹ソドムの罪はこれである。
 彼女とその娘たちは高慢で、
 食物に飽き安閑と暮らしていながら、
 貧しい者、乏しい者を
 助けようとはしなかった」(エゼキエル十六・四九)。
みなさん、これがソドミーです。
ソドミーとは、社会的不正義であり、
寄る辺なき者を冷遇することです。
(『キリスト教は同性愛を受け入れられるか』日本キリスト教団出版局128ページ)


【参考文献】
ジョン=ボズウェル(大越愛子・下田立行訳)『キリスト教と同性愛―1~14世紀のゲイ・ピープル』、国文社、1990年。
ジェフリー=S=サイカー編(森本あんり監訳)『キリスト教は同性愛を受け入れられるか』、日本キリスト教団出版局、2002年。
『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.17より転載)


【関連記事】
西洋における男性同性愛者観の移り変わり
# by imadegawatuusin | 2002-12-16 03:04 | 歴史