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モザイクの中の人権を護れ!

僕たちの国には、
人権によって護られるべき人間と
そうでない人間がいるのだろうか。
何の罪もない(少なくともまだ何もしていない)人々を、
信じている宗教によって差別する……、
こんなことが許されてもいいのだろうか。
もちろん許されるはずがない。
思想や信仰の自由は最も大切な人権だからだ。
他の人権は「公共の福祉」に服する可能性があるのに対し、
思想や信仰の自由だけは「公共の福祉」の介入を許す余地のない人権であり、
たとえ死刑囚であっても100パーセント護られるべき
絶対的な人権だからだ。
こんなことは当然のことだ。
当然のことであるはずだった。
けれど現実には、決してそうではなかった。

最近、
「人権」という言葉がどんどんカッコ悪くなっていく。
人権なんて、
自分のエゴイズムを正当化するためのものでしかない。
ダサくて、汚くて、そして卑怯だ……、と。
けれど僕は人権思想を、
つまり「どんなに自分と意見の違う人の人権でさえも認める」という考え方を
エゴイズムの対極にある思想だと信じたい。
自分と違う思想を持つ人や、
自分と違う信仰を持つ人の人権を擁護することは、
決して偏狭なエゴイストに出来ることとは思えない。
深くて、そして大きな心を持つ人だけに
出来ることだと思うから……。

今回は森達也さんの書いた
『「A」撮影日誌』という本を取り上げたい。
森さんは、
13ヶ月にわたってオウム真理教の荒木浩広報副部長に密着し、
ドキュメンタリー映画『A』を制作した監督だ。
取材の順番をめぐって大ゲンカを始める民放記者。
大勢の市民の前で堂々と暴力をふるう警察官。
そして何より、それをはやし立てる市民……。
信じられない、いや、信じたくない映像の数々を
森監督は突きつける。
けれど、その映像に対する解釈を
森監督は押し付けない。
後は自分で考えろと、あえて見る人を突き放す。

この本は、そんな『A』の撮影日誌だ。

確かに、
一連の事件を引き起こしたオウム信者の罪は極めて重い。
定められた手続きに従って
厳しい制裁を受けるのは当然だと思う。
これは何も、
「お前はオウムを擁護するのか」と言われたくなくて、
弁解のために一応言っているわけではない。
僕は彼らを憎んでいる。
心の底から憎んでいる。
彼らは、僕の大好きな日本を
僕から奪い取ったのだ。

オウム事件が起こるまでのこの国を
僕はとっても好きだった。
おそらく、森監督もそうだったのだ。

僕は日本を愛していた。
この国に生まれたことを誇りに思っていた。
この土地を、この町を、この山河を、人々を、
何よりも愛おしく思っていた。
南京で虐殺された人の数が
3000だろうが30万だろうがどうでもよい。
慰安婦が実は志願したのか強制されたかもどうでもいい。
数字や記録にこだわらず、
ひたすら謝罪し反省する日本を、
僕は誇りに思っていた。
徹底した自虐史観に誇りを持っていた。
国旗国歌を持たないことに誇りを持っていた。
戦争放棄を宣言して
非武装中立と言う夢を持ち続けることを誇りに思っていた」(森達也 「ポストオウム・1999年11月29日に思うこと」 『ドキュメントオウム真理教』)。


ここに引用した「僕」(=森監督)の気持ちは、
そのまま僕に当てはまる。
オウム事件が起こるまで僕は、
自分がこんなにこの国のことが好きだったなんて知らなかった。
「何が日本だ、愛国心だ。
 こんな国、さっさと滅べばいいんだよ」と
平気な顔で言っていた。
でも、本当はそれは違っていた。
「日本なんて嫌いだ」と平気な顔で言えるこの国を
僕は本当は好きだったのだ。
僕は、オウム事件が起こった後で、
ようやくそのことに気がついた。
そして、そのときにはもう遅かった。
「親孝行したいときには親はなし」っていう川柳があるけど、
そんな気持ちだ。
ケンカばかりしていた恋人と別れた後で、
実はその恋人をものすごく好きだったことに気付く、
って筋書きの少女まんががよくあるけど、
なんかそれにも似ている。
謙虚で平和で自由な空気が日に日に薄れていく中で
ようやく僕は気がついたのだ。
僕がどんなに「嫌いだ」と言っても許してくれるこの国を
僕は心底好きだったのだ、と
(日本国への告白なんてとてつもなく恥ずかしい。
 読んだ人は今すぐ忘れるように)。

そんな愛すべき祖国・日本をすっかり変えてしまったのが
オウム事件だったのだ。
オウム事件は、
「個人の自由ばかりを重視して国家がきちんとしていなければ
 大変なことになってしまう」という認識を
みんなの心に植えつけた。
オウム事件は日本の世論を
僕の嫌いな方向へと押しやってしまったのである。
自虐史観も、一国平和主義も、個人主義も、
「戦後民主主義」と言う言葉で一括りにされて一蹴された。
それに代わって、
自由主義史観や祖国防衛主義・公共主義が
大手を振ってまかり通るようになってしまった。
それもこれも、
松本(麻原)被告をはじめとするオウム事件の
実行犯たちのせいである。
彼らは、
僕の愛すべき祖国を殺したのである。
だから、僕は彼らが嫌いだ。
河野さんが無実の罪を着せられたのも、
何の罪もない子供たちが
「麻原の子供」であるというだけで学校に入れてもらえなかったのも、
もとはといえば彼らのせいだ。
僕は彼らを許せない。

しかし今、何の罪もない人々が、
彼らと同じ信仰を持っている、というたったそれだけの理由で
堂々と人権を侵害されている。
中でも、この本の中に出てきた、
警察官による暴力シーンはショックだった。
オウム信者を押し倒し、
後頭部をコンクリートに叩き付けて気絶させる。
そのとたん、
打ち付けてもいない膝を抱えて悲鳴を上げるという
なんともくさい演技を始め、
公務執行妨害罪でオウム信者を逮捕する。
知識として、
「転び公妨」と言われるこういう手法が存在するのは知っていたが、
白昼堂々 多数の見物人がいる中で、
それもカメラが回っている中でやっているとは思わなかった。
人目につかないところでこっそりと、
隠れてやるくらいの後ろめたさは
どこの警察でも持ち合わせていると思っていた。
恐ろしい。

けれど、もっと恐ろしいのは
それを見ていた一般市民の反応だ。

「人間じゃねえんだからよ、こいつら。
 殺されても文句なんかいえねえんだからよ」
と、嬉しそうに言う中年男性。
「ざまあみろバカヤロウ」
と叫ぶ野次馬。
「全部死刑にしちまえばいいんだよなあ」
「ポアされて本望だろ」
などと言う通行人……。

荒木さんは森監督に、
信者の無実を証明するため、
映像を貸してほしいと訴える。
森監督は拒絶した。
監督の映像がオウムに利用されたとなると、
『A』の中立性が疑われ、
作品としての命取りになりかねない。

オウム信者を押し倒した警察官は
「加療3週間」との診断書を提出し、
信者は公務執行妨害罪に加えて傷害罪にも
問われることになってしまった。
起訴直前のギリギリの段階で、
ついに監督は信者の弁護士にフィルムを提供。
慌てた警察は翌日信者を釈放した。
「加療3週間」の警官は、
事件後数日で署内を元気に走り回っていたそうだ。
こんな悪徳警察官こそ逮捕されるべきだろう。

自分の人権さえ護られれば、
他人の人権なんかどうだっていいという考え方は、
結局自分の人権を脅かすことになる。
善良なる市民の人権さえ護られれば、
オウム信者の人権なんてどうだっていいという考え方は、
結局善良なる市民の人権を脅かすことになるだろう。

教団信者への住民票転入届の受理拒否は
今なお全国で続いている。
特定の宗教の信者であることを理由に
住民票が受理されないのである。
これほどあからさまな法律違反が他にあるだろうか。
これほどあからさまな人権侵害が他にあるだろうか。
全国の裁判所で
自治体がたが十何連敗をきっしている事実を見るまでもなく
明らかに法律違反の人権侵害が、
全国で堂々とまかり通っているのである。

転入届不受理といえば、
興味深い話を何かの雑誌で読んだことがある。
あるとき、森監督が役所を訪ねたときのお話だ。
役所の正面には3つの垂れ幕が下げられていた。
右端が
「ふれあいと、対話が築く明るい社会」。
真ん中が
「人権は、みんな持つもの守るもの」。
そして、左端にある、ひときわ新しい垂れ幕には
「オウム信者の転入・転居届けは受理しません」と
書いてあったそうだ。
森監督は、
『この3つの垂れ幕が共存していることに誰も違和感を覚えないのか。
 オウム信者の転入届を受理しないというのなら、
 「人権」の垂れ幕は下ろしてしまえ』といった意味のことを
どこかの雑誌(確か『創』だったと思う)に書いたのだそうだ。
すると数日後、
本当に「人権」の垂れ幕のほうが
そこから下ろされてしまったのだそうなのだ。
転入届不受理の垂れ幕のほうではなく。

そもそも国や自治体は、
特定の思想や宗教の正邪を判定することの許されない、
価値中立的な存在であるはずだ。
たとえ圧倒的多数の市民によって排斥され、
忌み嫌われているような思想・信仰であったとしても、
それを理由に不利益を課したり
差別的な取り扱いをしたりすることは許されない。

しかし現在、
全国各地の自治体が
公然とオウム信者に対する住民票転入届の受理を
拒否している。
住民票転入届の受理を拒否されるということは、
健康保険証がもらえなくなるということであり、
選挙権が剥奪されるということだ。
これはもはや
行政による嫌がらせとしか言いようがない。
そして、
こうした行為が
「オウムには何をやっても許される」という風潮を
助長したのだ。

オウムに対する住民運動は
どんどんエスカレートした。
オウム信者に対する不売運動に始まり、
ごみの回収の拒否までが
ごく当然のことであるかのように行なわれた。
住民たちがオウム信者の乗った車をパンクさせ、
投石し、
電話工事まで妨害した地域もあった。
挙句の果てには、
松本被告の幼い子供たち
(彼らはもはやオウム信者ですらなかった)にまでデモ行進をかけ、
「悪魔のお前たちに人権はない」などと
こぶしを突き上げるところにまで至ったのである。

オウム信者に対する転入届受理拒否は、
価値中立的であるべき自治体の立場を踏み外す行ないである。
大体、
「転入届の受理を拒否されるのが嫌で
 私はオウムをやめました」という人の話を
僕はいまだに聞いたことがない。
むしろ、
「それみたことか。
 やっぱり俗世はむちゃくちゃだ。
 なりふりかまわず我々を弾圧しようとしているではないか」として、
彼らの信仰を一層かたくなにしているようにすら見える。

そもそも、
転入届の受理拒否にどれほどの効果があるのか、
僕は疑問に思っている。
オウム信者の転入届の受理を拒否しても、
信者がそこに住んでいる事実は拒否できない。
オウム信者に対する転入届の受理拒否は、
自治体や住民の
単なる自己満足に過ぎないのではないだろうか。
いい加減にやめるべきだと僕は思うが。
 
僕は、
悔しいことだが
オウム真理教の「日本社会を根底から覆す」という馬鹿げた企みは、
「物の見事に成功した」と言えるのではないかと思っている。
転入拒否、就学拒否……、
「法の下の平等」という日本社会の大原則は、
オウム真理教の前にあっけなく崩れ去ったのである。
東京拘置所の中から
誰かさんの勝ち誇ったような高笑いが聞こえてくるようだ。

人権は、
「最悪の人間」にも適応出来るものでなければ
「人権」ではない。
「オウム信者でさえ」人権が守られてこそ、
僕たちの人権は大丈夫なのだ。

人権は、
決して神様に与えてもらったものじゃない。
僕たちや、僕たちの先祖が
少しずつ、少しずつ築き上げてきたものだ。
だからこそ、
今、僕たちが守らなければ、
誰も代わりに護ってはくれない。
今、僕たち自身の手で護りぬかなければ、
あっという間になくなってしまうものなのだということを、
絶対に忘れてはならないと思う。
『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.3より転載)
# by imadegawatuusin | 2002-09-09 09:32 | 差別問題

「キングギドラ」のCD回収事件を振り返って

数ヶ月前、
人気ヒップホップグループ・「キングギドラ」のCDが
回収されるという事件があった。
鈴木邦男主義」が連載されている『創』にも
記事が掲載されていたので、
知っている方もいるかもしれない。
「ニセもん野郎にホモ野郎 
 一発で仕止める言葉のドライブバイ 
 こいつやってもいいか 
 奴の命奪ってもいいか」などという歌詞が
サビの部分で何度も繰り返されていたからだ。
この歌詞の中では他にも
「オカマみたいな変なの」という言葉も出てきており、
この歌詞を作詞した「キングギドラ」のメンバーが、
同性愛者を「程度の低いもの」とみなしていたことは明らかだった。

メディアの中にはこの問題を
「不適切表現で回収」と報じたところもあった。
しかし、
これは単なる「不適切表現」の問題ではない。
「キングギドラ」は歌詞の中で
「ホモ野郎」を
「やってもいいか」・「命奪ってもいいか」と言ったのである。
これを、どれほど「適切」な表現で言い換えたとしても、
事態は何も変わらない。
「表現」ではなく、
そこに流れる思想そのものが問題となっていたのである。

鈴木先生はよく、
「抗議があるなら自分に直接言ってほしい。
 自分を通り越して出版社に抗議するのはやめてくれ」と言っている。
しかし、
彼らの対応は全くその逆だった。
この件に関して、
「キングギドラ」のメンバーが表に出てくることは最後までなかった。
すべて、
CDの販売元が前面に出てきて抗議に対処し始めたのだ。
販売元は、
歌詞が問題となっていると見るやいなや
即刻CD回収を決定した。
それなのに、
CD回収を通知する文章の中でもなお
「メンバーに悪意は決してなかった」などと言い切ったのである。
悪意がなくてどうしてこのような歌詞が書けると言うのか。

そして販売元は、
CD回収の理由について、
「同性愛者やHIV感染者の方々に
 不快な思いをさせかねない歌詞が
 一部含まれていると判断」したためだとした。
これもずいぶんとふざけた話である。
同性愛者でなければ、
HIVに感染していなければ、
この歌詞で不快な思いをすることはないというのだろうか。
異性愛者やHIV非感染者もひどく見くびられたものである。
僕は大いに「不快な思いをさせ」られて、
この件についての文章を『週刊金曜日』に投書した(5月31日号に掲載)。

表現活動をしている以上、
必ず人を傷つける可能性はあるものだ。
高らかに恋愛のすばらしさを歌い上げる美しい歌詞であっても、
失恋したばかりの者には「不快な思いをさせかねない」。
「不快な思いをさせかねない」というのは、
CDを回収する理由にはならないと思う。
もしCDを回収するのなら、
表現者がきちんと抗議者の意見に耳を傾け、
自分の表現の中のどういう部分が間違っていたのかをきちんと明らかにした上で、
回収するのが筋である。
しかし、
CD回収という騒動にまで発展したにもかかわらず、
「キングギドラ」はいまだに今回の件について公式に
何のコメントもしていない。
抗議への対応なども、
すべて販売元に任せきりであり、
彼らの声は僕の耳には全く聞こえてこなかった。
ただ、販売元が
「メンバーに悪意は決してなかった」・
「彼らも深く反省している」などと言っているのを聞くことだけしか
できなかったのである。

僕は何も、
彼らを糾弾してCDを音楽界から追放したかったわけではない。
この歌詞を見て心を痛めたものの一人として、
彼らが何を考えてこんな歌を歌ったのかを問いただし、
反省を促したかっただけなのだ。
けれど、
彼らが抗議を真正面から受け止めることはなかった。
彼らが逃げたのか、
あるいは販売元が彼らに口止めをしていたのか、
その辺の事情は僕にはよく分からない。
もしかすると、
「キングギドラ」ほどのグループになると、
メンバーたち本人が抗議に対応したりはしないのが
当たり前なのかもしれない。
そんなのは、
事務所やCD会社の仕事なのかもしれない。
けれど僕は、聞きたかった。
どういうつもりでこんな歌を歌ったのか。
そのことについて今どう思っているのか。
どういう点を反省し、
これからはどうしていこうと思っているのか。
彼らはホームページだって持っているんだから、
そこできちんと説明してほしかった。

「キングギドラ」のメンバーたちはそれらの疑問に答えてくれなかったが、
大学の友人がこの件について僕に意見を言ってくれた。
彼は音楽サークルに所属しており、
「キングギドラ」の大ファンだと言っていた。
彼の意見はかなり貴重だと思ったので、
きちんと取り上げ、これについて考えてみたいと思う。

彼の主張は大きく分けて二つであった。

1.「ホモ野郎」という言葉は、
  文字通りにホモセクシャルの人々を指しているわけではなく、
  「男らしくない男」を表す一種のたとえではないか。

2.同性愛者は趣味で同性愛をやっているのであるから、
  ある程度の差別には我慢すべきではないのか。

まず、
1.について考えてみよう。
確かに、
「ホモ野郎」という言葉が他の何かの比喩的表現であり、
同性愛者そのものを指していたわけではない可能性は否定できない。
しかし、
たとえそうであったとしても、
この歌の悪質さは変わらない。
「ジャップを殺せ!」というCDが発売され、
その「ジャップ」という言葉が「仕事中毒人間」の比喩的表現であって
日本人そのものを指しているわけではないのだとしても、
日本人を侮辱していることには変わりがないのと同じである。
この歌詞の中で
「ホモ野郎」は「ニセもん野郎」と同列視され、
明らかに「悪いもの」としておとしめられている。
「ホモ野郎」という言葉が実際にはどういう人を指していたのだとしても、
「ホモ野郎」というものは悪いものだという前提で
「悪いたとえ」として使われていたことは動かしようがないのである。

また、
「ホモ野郎」を「男らしくない男」という意味で使ったというのなら、
それはそれで見識に欠ける。
「男らしさ」・「女らしさ」という「社会的性別」の問題と、
「ホモセクシャル(同性愛)」・「ヘテロセクシャル(異性愛)」という「性的指向」の問題とを、
全く別の問題であるのに混同してしまっているからだ。
世の中にはいろんな同性愛者がいる。
男性同性愛者もいるし、女性同性愛者もいる。
その男性同性愛者の中にも、
マスコミによく取り上げられるような「女性的」な男性同性愛者もいるし、
逆に「マッチョ」な男性同性愛者もいる。
そして、
男性同性愛者に対する世間のイメージは
大体この二つに絞られてしまっているような傾向があるけれど、
そのどちらのイメージにも合わない男性同性愛者が
大多数だというのも事実である。
要するに、
男性同性愛者にもいろいろいるのである。
右翼にもいろんな右翼がいるように。
そして、左翼にもいろんな左翼がいるように。

何より、
「男らしくない男」なら差別してもいいのか。
日本文化における「男らしさ」には、
「責任感がある」・「力強い」などの意味合いがあるようだが、
反面、「暴力的」・「柔軟性に欠ける」などの側面もある。
男が「男らし」くないことは一概に悪いこととは言えないし、
また男だけが「男らし」く生きなければならない理由も特にない。
「男らしい」ことがそんなにいいことであるならば、
当然女性も「男らし」くてもいいはずだ。
そもそも、「男らしい」云々で言うならば、
今回の「キングギドラ」の対応ぶりは
お世辞にも「男らしい」ものとは言えなかった。

次に2.についてだ。
「同性愛者は趣味で同性愛をやっている」と信じる人は
いまだに多い。
しかし、
性的指向はそう簡単に自分の意思で変えられるものではない。
同性愛者が異性を性的に愛することが難しいのは、
異性愛者が同性を性的に愛することが難しいのと同じである。

もちろん、恋愛とは、
本来は強制されてするものではないから、
広い意味では「趣味」に属する可能性があることは
否定はしない。
しかし、
男が女を愛することや女が男を愛することは
一般に「趣味」とは言わないようだ。
まして、男女の結婚や夫婦生活のことを
「趣味」という人はいないだろう。
それなのに、
同性間の恋愛だけを「趣味」として片付けるのは不公平である。

また、
百歩譲って同性愛が趣味だとしても、
それは決して同性愛者に対する差別を正当化しない。
もし、
将棋好きの人が我が国では差別されており、
「将棋野郎を殺せ!」というCDが発売されたとしよう。
将棋好きの人たちは趣味で将棋をやっているのであるから、
これに抗議する権利はないのだろうか。
少なくとも、
僕はそうは思わない。
同性愛が趣味であろうとなかろうと、
不当な差別に抗議するのは実に当然のことなのだ。

世の中には、
同性を愛する人間もいれば、
異性を愛する人間もいる。
両者は単に恋愛対象が異なるだけで、
この違いが人間としての価値に差をつけることはありえない。
「変態」なのは同性愛者の方ではない。
同性愛者を嫌悪し、排除し、笑いものにする社会の方こそ、
はっきり言って「変態」なのだ。
同性愛者に対する差別・偏見はやはり不当なのである。
『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.2より転載)
# by imadegawatuusin | 2002-08-30 05:26 | 差別問題

鈴木先生と私

中学生のときに、
僕は初めて鈴木先生に出会いました。
学校の図書室で、
筑紫哲也さんの対談集を読んでいたときのことです。

僕は、
日教組地方支部の専従役員をやっているような父親に育てられたせいか、
小さいころから少し左がかった人間でした。
もちろん、
「左がかった」といっても、
別にマルクスとかレーニンとかの思想を持っていたわけではありません。
筑紫哲也が大好きで右翼が嫌いな子供だった、
くらいの意味だと理解してください。
 
まあそんなわけで
筑紫哲也の対談集なんてものを読んでおりましたところ、
その対談相手の一人が鈴木先生だったのです。
読後の第一印象は……、
はっきり言って「最悪」でした。
今から考えると何でこんなに腹が立ったのか分からないくらいに
とにかく腹が立ちました。
多分、
「右翼」という先入観を持って読んでしまったというのも理由の一つだと思うのですが、
やたらと高圧的・独善的・暴力的な人間に見えたのです。

たとえば、鈴木先生はこんなことを言っています。

天皇を批判する人間に度胸がない、と。
もし、本当に思想に命をかけるというのならば、
殺されたっていいじゃないですか。
それくらいの覚悟でやるべきですよ。
こっちだってその覚悟でやってるんですから。


読んだ後、
しばらく言葉も出ませんでした。
唖然とした、というか……
(今読めば、それほどひどい発言とも思わないのですが)。
当時の僕は、
確かこんなことを考えていたと思います。

「殺されたっていいじゃないですか」って……、
「いい」訳無いやないか! 
お前ら右翼が天皇制に命を懸けるんは勝手やけれども、
何で『たかが』天皇制を批判するのに命まで懸けなアカンねん。
そんな事せんでもこんな訳分からん制度、
そのうち潰れるに決まってる。
まあ、お茶の家元制とか、
歌舞伎の襲名制みたいな感じで民間の制度としては
残っていくかもしらへんけどな。

今から考えれば、
ずいぶん皇室制度を甘く見ていたことが分かります。
「『たかが』天皇制」は「そのうち潰れる」と
本気で信じていたのですから。
そのくせ自分は「護憲派」だと思っていたのですから、
相当いい加減な人間だったということが分かりますね
(結局、
 僕が改憲派に転向したのは皇室制度が原因ではなく、
 同性愛者に対する結婚差別規定=憲法第24条
 「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」を改正しなければ、
 真の意味での同性愛者解放はありえないと考えたことがきっかけでした)。

その後、
「現代用語の基礎知識」や「知恵蔵」で左翼の項を見るのが大好きだった僕は
(中核派はヘルメットが白で機関紙は『前進』……ってなことを
 小学生のころから暗記して、
 メーデーでその党派を見つけては大喜びするような変な子供でした)、
少し手を広げて右翼の項も読んでみました。
それによると、
「鈴木邦男」氏は「野村秋介」氏と並ぶ新右翼の代表的指導者である、
ということでした。
そして中でも「鈴木邦男」氏は、
新右翼を代表する理論家であるということです。
それを読んだ結果、
「野村秋介」氏は「右翼の宮本顕治みたいなもん」で、
「鈴木邦男」氏は「右翼の黒田寛一みたいなもん」だと
僕の頭にはインプットされてしまいました。
こうして、
「鈴木邦男」=「怖くて厳しく頭が固い」というイメージは
ますます補強されたのです。

ところが、
そんな印象があっさり粉砕されてしまったのが、
例の「朝日新聞インタビュー事件」でのことでした。
もちろん、
これが「事件」になっていたことを知ったのはずいぶん後のことなのですが……。

たしか、
鈴木先生の前日には、
沖縄反戦地主の知花昌一さんがこのコーナーに登場していたと思います。
そのインタビューがとてもおもしろかったので、
「このシリーズは今後も逃さず読むことにしよう」と
僕は決意したのです。
ところが、
翌日登場したのはあの恐ろしい右翼・「鈴木邦男」氏ではありませんか! 
最初は怖かったのですが、
一応『読んでやる』ことにいたしました。

で、結局、
むちゃくちゃおもしろかったのです。
いわゆる「朝日新聞インタビュー事件」で問題となったのは、
「国旗が『赤旗』になって、
 国歌が『インターナショナル』になるなら、
 それでもいい」という鈴木先生の発言だったそうですが、
僕はその部分よりむしろ、
「国の歌や旗なんだから、
 少なくとも国家を代表する大会や集会だけで使えばいいんです」・
「それ(筆者注―日の丸・君が代)に代わる、
 みんなが尊敬できる歌や旗とかいっても、
 その歌や旗のもとに一致団結したら危ない」・
「日本の歴史で国旗や国歌が出てきてまだ百数十年。
 明治維新で西欧の影響を受けてからです。
 『極右』の人なら、
 西欧をまねて作った国歌や国旗なんて捨てて
 『本来の日本に戻れ』と主張してもいい」
などといった部分に心ひかれる思いがしたのです。

僕の思っていたような「右翼」とは、
少し違うのかもしれない。
たとえ思想が違っても、
この人となら何かが共有できるのではないか……。
そう思い始めた僕は、
その後本屋で鈴木先生の本を立ち読みし、
買いあさり、
掲示板にまで書き込みをはじめ……、
そして現在に至っているというわけです。

鈴木先生の御本を読むようになって、
一番の収穫だなと思っていることは、
右系(保守系・右翼系・民族派系を問わず)の人の書いた文章を
冷静に読めるようになったということです。
それまでは、
そうした文章を読むときには、
「こいつは右翼だ、反動だ。
 きっと裏から金をもらって嘘八百を並べ立て、
 善良な市民をだまくらかそうとしているに違いない」という心構え(?)が先にあって、
とても冷静に読めたものではありませんでした。
けれど鈴木先生の御本を読んでからは、
「ウソや間違いもあるかもしれないけれど、
 この人にはこの人なりの信念があって頑張ってるんだ」という
穏やかな気持ちで幅広く文章を読むことができるようになったのです。
「右も左も宗教も、
 やり方は違っても『よりよい世界』を目指して
 頑張っている」という当たり前の事実に、
ようやく気づくことができたのです。

最後に、鈴木先生の御本に触れて作った短歌を置いておきます。

●外ゲバはないんだ 左右の「外ゲバ」は政治おたくの内ゲバなんだ


『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.1より転載)
# by imadegawatuusin | 2002-08-16 05:14 | 政治