人気ブログランキング |

よど号問題と拉致問題

元赤軍派議長・塩見孝也氏の
「よど号グループよ、拉致問題の真実を語れ!」というインタビューが、
10月7日に発売された月刊『創』11月号に掲載された。
この号には鈴木先生の
「どうする!『よど号』」という文章も載っており、
読み比べてみるとなかなか腑に落ちるものがある。

塩見氏のインタビューの中で注目すべき部分は、
やはり「『拉致』問題についてのある種の確信」という章だろう。
これによると塩見氏は「95~96年頃」、
「石岡さんら」についてよど号グループに訊いたそうだ。
「オルグしようとしたけど、手に負えなくなった」というのが
よど号グループの返事だったという。
手に負えなくなって労働党が出てきた結果
「手の届かないところに行った」とよど号グループは言ったという。
塩見氏はこの会話について、
「もちろん、連れて来たというのを前提にしての話」だったとしている。
しかし、
2000年の訪朝の際に訪朝団のメンバーが訊いたときには、
「その男性を連れてきてはいない」という説明に変わっていたそうだ。

これは非常に重要な証言であると僕は思う。
なぜなら、
塩見氏は
よど号グループに対立しようとしている人物ではないからだ。
そのことは、
このインタビューの中でも再三にわたって強調されている。

今後、
僕の発言が
「よど号」グループの裁判に使われる可能性もあることは念頭に置き、
注意していかなければならない


真実をはっきりさせながら
相対的に独自なスタンスを保って、
同志的友人の立場、
人道の立場というか、
そういうことから救援を継続する。
それが僕と彼らの関係だ。
「救援しながら真相を!」という潮流を創出する
正しい対応だと思う


彼らがすすんで人民が亡くなることに手を貸したわけではない


マスコミが僕と小西らとの対立を煽るのに
巻き込まれたくなかった


権力に結託した反「よど号」の立場に立つのではなく、
第三の立場で、
一定の距離を置きながら救援するというのが僕らの立場だ


僕はどこまでも救援する


要するに塩見氏は、
『よど号の人たちとはこれからも友人であり続けたいし、
 そうあり続けるためにも本当のことを話してほしい』
という立場であると僕は理解した。
この点は、
よど号グループを厳しく批判している高沢皓司さんや
八尾恵さんとは大きく違う。
そうした立場の塩見氏が、
『よど号グループも
 一時は石岡さんらを連れてきたことを認めていた』というような嘘を
敢えてついているとは考えにくい。
だから僕は、
塩見氏のこの証言にかなりの信憑性を感じる。
よど号グループが拉致
(あるいは、最大限にひいき目に見ても
 石岡さんらの帰国妨害)にかかわったことは
まず間違いないと感じられた。
別に僕は、
塩見氏の言うことは正しいとか、
塩見氏は信用できる人物だとか言っているわけではない。
ただ合理的に考えて、
塩見氏が嘘をついている可能性は
極めて低いと感じられるだけだ。

よど号グループにはただちに帰国してもらいたい。
帰国して、
日本できちんと裁きを受けてほしいと思う。
主張があるのなら、
そこで堂々と述べてほしい。
今や日本では「拉致国家」・「テロ国家」としか見られていない北朝鮮から
「無実」を叫んでも説得力がない。
百歩譲って彼らが拉致事件に無関係だとしても、
何の罪もない人民を人質にとって
飛行機を乗っ取った犯罪者である点には
全く疑う余地はない。
外国政府の庇護の下に
このまま処罰を免れ続けることは
やはり許されないのではないかと思うのだ。

よど号事件の実行犯は、
全員・即時・無条件で帰国し、
日本において法の裁きを受けるべきである。
日本政府は拉致被害者らの即時帰国と合わせて、
よど号メンバーの引渡しも
北朝鮮政府に強く求めていかなければならないだろう。

……、とここまで書いてきたところで
ニュースが入ってきた。
拉致被害者の帰国が実現する見通しになったらしい。
つい1ヶ月前までは、
このような事態になるだろうとは夢にも思っていなかった。
 
僕は最初、小泉総理が訪朝すると聞いたとき、
こんなのは総理が得意としている
パフォーマンスに過ぎないと決め付けていた。
田中外相更迭問題以来落ち込み気味の支持率を挽回させるため、
訪朝という派手なパフォーマンスで
注目を引こうと考えているのだろう。
しょせんは儀礼的な訪問であり、
名刺交換でもしただけで帰ってくるのだ。
独裁国家の北朝鮮が自分たちの「非」を認めるわけがないし、
大体「拉致事件」なるものにしても、
あやしいものではないか。
朝鮮語と日本語の両方を話せる在日朝鮮人だっているし、
そもそも北朝鮮には多くの「日本人妻」だっているというのに、
朝鮮語も理解できない日本の若者を拉致して北朝鮮へ連れて行き、
朝鮮人への日本語の教育係にするなどということは
あるわけがない。
日朝国交正常化交渉は、
朝鮮半島を植民地として我が国が支配した歴史の清算から
始めるべきである。
まずは自らの過去の国家犯罪を真剣に反省し、
謝罪しない限り、
我が国は北朝鮮を追及するにたる道義性を持つことは出来ない……。

小泉総理の訪朝を聞いたときの第一印象は、
ざっとこんなものであった。
北朝鮮による拉致の事実が明らかになった今、
僕は真剣に自己批判する必要があると思う。
おそらく、
僕のような立場の人間が日朝国交正常化交渉に当たっていれば、
拉致事件は永遠に解決されることはなかっただろう。
「拉致問題の解決なくして
 日朝国交正常化はありえない」と主張し続けた小泉首相のやり方が
北朝鮮に拉致の事実を認めさせ、
被害者らの帰国を勝ち取ったのだと思う。
僕は小泉政権を支持したことは一度もないし、
今後も支持することはないと思うが、
やはり、
たとえ相手が自民党政権の首相であっても、
いいことはいいと言いたいと思う。
もちろん、
不手際もあっただろう。
いろいろと不満な点がないわけではない。
また、
事態は現在も進行中なので
今の段階で評価を決めるのは早すぎるかもしれない。
けれど、
冷静に考えて、
これは日本外交の勝利だったと僕は思う。
小泉首相はもちろんのこと、
拉致問題の解決のために力を尽くされてきた外交官の方々に
僕は本当に感謝申し上げたい。

それにひるがえって僕はどうだ。
北朝鮮による拉致なんて本当かどうか疑わしいだなんて、
ろくに調べもしないで決め付けていた。

いや、もっと言えば、
拉致事件そのものに対する責任だってあるような気もする。
今になって調べて見ると、
どうやら日本人が次々と拉致される以前には、
韓国の沿岸で拉致事件が頻繁に発生していたそうなのだ。
しかし、
韓国政府は沿岸の警備を強化し、
拉致事件の防止に努めた。
工作員の侵入や韓国人の拉致が困難になった北朝鮮は、
沿岸警備の手薄な日本を狙うようになり、
「日本人へのなりすまし」などの手段を使って
韓国侵入を試みるようになったといわれている。
だとすれば、
拉致事件の原因は
(もちろん第一義的には北朝鮮政府による
 人権無視の国家政策にあるのだが)、
沿岸警備の強化を怠った
日本の警備体制にあったといわざるを得ない。
では当時
(もっとも、僕はまだ生まれてないけど)、
もしも次のように問われたら
僕はどうしていただろう。
「最近、日本の沿岸で
 不審な行動をとる勢力があるようなので、
 海上警備体制を強化したいと思います。
 いかがでしょうか」。
おそらく僕は
「絶対反対」と答えていたに違いない。
「警備強化は軍事大国への道だ」とか何とか理屈をつけて。

「警備強化」とか「安全保障」とかいうものには
片っ端から反対するのが「平和主義者の証」だと思うような傾向が
僕にはある。
というか、
左がかった人間の多くが
こういう傾向にあるような気がする。
今回の事件では、
僕も含めたそうした傾向の人間全員に、
いわば「不作為責任」とでも言うべき責任が
あるような気がしてならないのである。
いくら平和主義者だからといって、
たとえば海上パトロールの回数を多くしたり、
巡視艇を増やしたりすることにまで
「軍事大国への道」というようなレッテルを貼らなくても
よかったのではないか。
こうした態度が北朝鮮工作員の我が国への進入を招き、
結果として在日朝鮮人などへの嫌がらせをはじめとする
排外主義的行動を煽ってしまったのではないだろうか。
僕は今、そんなことを考えている。

自分がこんな文章を書いてしまっていることに
自分でも驚いている。
普段の僕では絶対にこんなことは書かない。
自分で言うのもなんだが、
僕はかなり教条主義的な人間だ。
「国民の生命と安全を護るために
 沿岸警備体制を強化するべきだった」なんて、
自分で書いておきながら、
読んでみるとなんだか腹が立つ。
でも、思い切って書いてみることにした。
自分で自分を自己規制してしまわずに、
思っていることをどんどん書いていける人間になっていきたい。
自分を思想で縛らずに、
思想をどんどんうち捨てて、
新しい自分を創っていきたい。
たとえば、鈴木先生のように。
そのために僕は
ここでこうして文章を書かせていただいているのだから。

さて、さっきちょっと話に出たので、
最後に在日朝鮮人への嫌がらせについて触れておきたい。
お決まりのパターンと言うか予想通りと言うか、
朝鮮学校の生徒に嫌がらせをする人間がやっぱりいた。
ちょっと目新しいのでは、
在日朝鮮人のボクシング選手の掲示板が
荒らされたとかいう話もあった。
北朝鮮による拉致と、
子供たちと、
ボクシング選手との間にどういう関係があるというのか。
「北朝鮮は悪いことをしたのだから、
 朝鮮人はこのぐらいの仕打ちを受けて当然だ」というのは、
「日本は朝鮮に悪いことをしたのだから、
 日本人は北朝鮮に拉致されたって当然だ」と言うに等しい
むちゃくちゃな論理である。

大体、朝鮮人を攻撃することで
北朝鮮に何らかのダメージを与えられるとでも
思っているのだろうか。
そうだとすれば、
それは北朝鮮に対する過大評価である。
北朝鮮は、
自国内に住んでいる国民のことさえ考えようとはしない。
何万人が餓死しようとも、
独裁政権を維持することだけを考えている。
そんな国家が、
日本に住んでいる同胞が嫌がらせを受けたことで
心を痛めたりするとは思えない。
朝鮮人を痛めつけても北朝鮮は何の痛みも感じない。
北朝鮮とはそもそもそういう国なのだ。

だから、
拉致事件についての怒りの矛先はまっすぐに
独裁政権の指導部に向けられなければならない。
在日朝鮮人に対する嫌がらせがあれば、
北朝鮮はそれを根拠に日本社会の差別性を批判するだろう。
在日朝鮮人への嫌がらせは、
我が国を非難する口実を北朝鮮に与えている。
我が国の立場を弱め、
北朝鮮の立場を強めることになるだろう。
これから本格的な日朝交渉が始まろうとする今、
在日朝鮮人への嫌がらせは明らかに利敵行為なのである。
もし
在日朝鮮人への嫌がらせを行なったあなたが愛国者であるならば
(多分そんなことはないと僕は思うけど)、
ぜひともただちにやめていただきたいものである。
『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.8より転載)
# by imadegawatuusin | 2002-10-14 19:35 | 国際

「まんが同人誌」というものをあなたはご存知だろうか。

いうまでもなく同人誌とは、
「主義・傾向・趣味などを同じくする人たちが
 共同で編集発行する雑誌」のことである。
だから「まんが同人誌」とは、
「まんがを好きな人たちが共同で編集発行する
 まんが雑誌」のことだろうと考えるのが自然だが、
これは必ずしもそうではない。
もちろん、そういう「まんが同人誌」もないわけではないのだが、
現在の「まんが同人誌」の大半は、
「雑誌」でもなければ「共同で編集発行」もしていない。
個人が編集発行する、
単なる自費出版のまんが本であることが一般的だ。

なぜ単なる個人出版のまんが本を「同人誌」と呼ぶのかというと、
それは「まんが同人誌」の歴史に関係がある。
もともと「まんが同人誌」とは、
各大学や高校に存在した
「漫画研究会」(通称「漫研」)などのサークルが発行する
機関誌を指す言葉だった。
当時はまさしく、
「まんがを好きな人たちが共同で編集発行する
 まんが雑誌」のことだったのだ。
ところが、当たり前のことではあるが、
「機関誌」なんて内輪の人間しか読んでくれない。
サークルの会員以外の人間が「まんが同人誌」を手にする機会なんて、
せいぜい文化祭のときにその学校の人間が
読んでくれるくらいのものである。
各大学・各高校の漫研をはじめとするサークルは、
全国各地で孤立していた。

そこで、
全国のサークルの交流会として、
「コミックマーケット」(通称「コミケット」・「コミケ」)というイベントが
企画された。
昭和50(1975)年のことだ。
以来、
今日に至るまでコミケットは発展を続け、
今では50万人を動員する大イベントとなっている。
会場では各サークルが店を出し、
まんが同人誌を売っている。

ところが、
コミケットは回を重ねるごとにその形態が変わってきた。
サークルではなく、
個人が店を出すようになってきたのだ。
これにはいくつか理由があるが、
一つだけ挙げるとすれば、
印刷技術の進歩によるコスト削減の結果、
個人でも本が出せるようになったことがあるだろう。
試しに、
手元にある『ぱふ』という雑誌の広告欄を見てみると、
有限会社K印刷では
A5判52ページの本が3万8千円で100冊作れるそうなのだ。
28ページでいいなら2万3千円で作れるという。
今までは、
みんなでお金を出し合わないととても本など作れなかったが、
今では個人で本が作れてしまうのだ。
こうして、
サークルを組む必要性が薄れてきた。
しかし、
コミケットはあくまで「サークルの交流会」という建前を持っている。
だから、
個人では参加を申し込むことができない。
申し込むことができなければ、
当然、せっかく作った本を売ることもできない。
そこで、
コミケットに参加を希望する個人たちは、
「個人サークル」というものをでっち上げたのである。
「個人サークル」とは読んで字のごとく、
個人のサークルである。
つまり、
会員は1人。
自分だけが会員の「サークル」を作って、
コミケットへの参加を願い出たのだ。
そしてこれが、認められた。
こうして、コミケットに個人が参加する道が開かれたのだ。

しかし、
いくら個人として参加しているとはいえ、
建前としては「サークル参加」である。
これは今でも変わらない。
だから、
個人サークルを主催する個人たちは、
自分たちの自費出版物のことを、
本物のサークルと同様に「同人誌」と呼びだした。
自分たちもきちんとした「サークル」なのだという建前を
取り繕うためである。
そして、
いつしかこれが定着し、
いまやまんが界では自費出版の発行物を
「同人誌」と呼ぶことが一般的になってしまったのだ。

当初は、
表現媒体を持たないアマチュアまんが家たちの
交流の場であったはずのコミケットだが、
今ではプロの作家もたくさん店を出している。
著作権などの関係で表の出版社からは出すことのできない
パロディーまんがを売るためだ
(この「パロディー」という言葉も、
 辞書的な意味とは少々違う。
 有名なまんがやアニメのキャラクターを登場させて、
 自分独自の新しいお話を作ること、
 くらいの意味だと理解してほしい)。

僕は、
このパロディー「同人誌」が大好きだ
(以下、
 「同人誌」とはまんがのパロディー「同人誌」のこと)。
大好きな作品の同人誌を見つけたりすると、
ちょくちょく通販で買ったりもしている。
我が国は、
さすがは おたく文化の中心地だけあって、
同人誌の質も高い。
商業誌に比べたら割高なのが少々きついが、
バイト代をやりくりすれば
月に数冊買えなくもない。

今まんが界では、
プロとアマチュアの境界線がなくなりつつあるといわれている。
インターネットや同人誌で、
誰でも好きなときに好きなだけ
作品を発表できる機会が整いつつある。
そうなると、
世の中にはいろんな作品が氾濫することになるだろう。

そうなったときに、
どうしても必要となってくるのが「格付け」だ。
「格付け」といっても、
決して作品に一つのものさしで序列を付けようって意味じゃない。
むしろ、
いろんな格付けがあるほうがいい。
少年まんがが好きな人、
少女まんがが好きな人、
Hなの、同性愛、かわいい子供が好きな人……、
いろんな人のための格付けをいろんな人がやればいい。
でもこうなると「格付けの格付け」も要るかもしれない。
ま、
いずれにしても格付けするほうは、
「ここが言うなら間違いない」って思われるような存在であることが
望ましいだろう。

そうなると、
読者にとって一番信用がおける、
権威のある機関ってどこだろう? 
ズバリ「原作の出版社」だと思う。
「原作者」だとなおいい。
同人誌は海外のおたくの間でも
「ドージンシ」で通じるという。
世界に誇るべき日本文化なのだ。
だったら、
「文化発表」・「文化発展」をもって社是とする大手出版社も、
この日本文化をもっと積極的に「奨励」するべきだ。
(出版社にとって)「良くない同人誌」を取り締まることより、
むしろ「良い同人誌」を表彰したらどうだろう? 
一年に一度、
新人まんが賞の担当さんに3・4冊を選んでもらい、
最後は原作者の先生に「1位の同人誌」を選んでもらおう。
原作者の「おほめの言葉」をつけて、
誌上で表彰しちゃうのだ。
賞金なんて0円でいい。
同人作家にとって、
「憧れの先生からのおほめの言葉」に優る報酬はないんだから。
同人誌のレベルも上がるだろう。

えっ? 
原作が売れなくなるんじゃないかって? 
大丈夫。
「同人誌は最も雄弁な評論家」って言葉があるじゃないか!

そんな言葉知らない? 
そりゃそうだろう。
いま僕が勝手に思いついた言葉なんだから。

本当にすばらしい評論家とは、
優れた作品を誉める人でもなければ
劣った作品をけなす人でもない。
一般人にはわからないその作品のよさを、
一般人にわかる言葉で説明できる人こそが
最も優れた評論家なんだ。

すばらしい同人誌は僕たちに
「原作の多彩な楽しみ方」を教えてくれる。

「このシーンってこんなに奥が深かったんだ」
「あっ、ここはこう考えるとおもしろいな!」
「なるほど、そんな風にもとれるんだ」

これらはすべて、
僕が同人誌を読んで感じた感動だ。
そのたびに
原作の世界が広がるように思えてくる。
僕が気づかなかった
「あのシーンの本当のおもしろさ」・
「このシーンの別の視点」を
パロディーというわかりやすい方法で教えてくれる同人誌は
まさしく「最も雄弁な評論家」なんだ。
美術でも文学でもスポーツでも、
優れた評論家を育てることは、
優れた客を育てることを意味する。
日本の伝統芸能を見るまでもなく、
「本当の良さがわかる客」が少なくなれば、
その業界は衰退するのだ。

万国のおたく業界関係者よ、団結せよ! 
一部のプチブル評論家に独占された作品を
人民の手に取り戻すのだ! 
同人界を育てることは、
まんが界を育てることに通じる。
同人誌を大切にすることは、
文化を大切にすることに通じるのである。

ところが、残念なことにこの同人誌が、
我が国では粗末に扱われているように思われてならない。
何より、
後世に残すべきこの貴重な文化遺産が、
ほとんど国立国会図書館に収集されていないのである。

国立国会図書館は、
日本国内の出版物を網羅的に収集・保存し、
後世にこれを伝える使命を負っている。
文献探しの最後のよりどころであり、
「図書館の図書館」といわれる存在だ。
その使命を果たすため、
国立国会図書館には
「納本制度」と呼ばれるシステムが存在する。
要するに、
日本国内で本を出版しようとする人は、
必ず国立国会図書館に本を納入しなければならないというシステムだ。
これは、
「国立国会図書館法」の第二十五条で
次のように定められている。

前二条に規定する者(酒井注:=国や地方自治体)以外の者は、
第二十四条第一項に規定する出版物
(酒井注:=図書・小冊子・逐次刊行物・楽譜・地図……など)
を発行したときは、
前二条の規定に該当する場合
(酒井注:=以前に発行した出版物の再販で、
 しかも、その再販の内容が前版の内容と比べて変化がなく、
 さらに、前版がすでに国会図書館に納入されている場合)
を除いて、
文化財の蓄積及びその利用に資するため、
発行の日から三十日以内に、
最良版の完全なもの一部を
国立国会図書館に納入しなければならない


さらに、
この条項に違反した場合には、
罰則まである。
同じく第二十五条の二には、

発行者が
正当の理由がなくて
前条第一項の規定による出版物の納入をしなかったときは、
その出版物の小売価額(小売価額のないときはこれに相当する金額)の
五倍に相当する金額以下の過料に処する


とある。
要するに、
国立国会図書館への納本を怠ることは
犯罪なのである
(もちろん、これはこれでどうかと思う面もあるのだが)。

ところが、
まんが同人誌を作っている同人作家の大半は
この条項を知らない。
その結果、
日本で年間何万冊と作られていると予想されるまんが同人誌が〔注1〕、
ほとんど国立国会図書館に
納本されていないという事態が起きているのだ。
このような状況の中では、
いずれまんが同人誌は散逸してしまうことになるだろう。
後世の研究家たちが手に入れようとしても、
それが不可能になってしまうのである。
これは、
日本文化にとって大きな損失であろうと思われる。

〔注1〕1回のコミケットに参加するサークルの数が、
現在では大体2万から2万5千サークルであることから予想した
酒井の独断

そこで僕は、
この場を借りて全国の同人作家の方々に呼びかけたい。
みなさんが同人誌を作ったときは、
必ず国立国会図書館に同人誌を納本するようにしてほしい。
そもそもこれは法律でも定められていることでもある
(納本のやり方は、
 国立国会図書館に電話でたずねると
 かなり丁寧に教えてくれる。
 国立国会図書館の電話番号は03-3581-2331)。
もちろん、
「納本」というとタダで本をあげちゃうようで
もったいないような気になるが、
第25条の3項には、

出版物を納入した者に対しては、
館長は、
その定めるところにより、
当該出版物の出版及び納入に通常要すべき費用に相当する金額を、
その代償金として交付する


とあるので、
払うべき金はきちんと払ってくれるのだ。

なお、
「発行の日から三十日以内」を過ぎてしまった出版物についても、
「発行者がその出版物を国立国会図書館に寄贈」した場合
は別におとがめはないそうなので、
ぜひとも寄贈してほしい。

すべての同人誌を国立国会図書館へ! 
現代日本が世界に誇る庶民文化・「まんが同人誌」を
後世にまで伝えよう!
『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.7より転載)

# by imadegawatuusin | 2002-10-07 19:21 | 漫画・アニメ

僕の家から歩いて5分くらいのところに
赤留比売神社(あかるひめじんじゃ)という神社がある。
境内があまりにも狭すぎて、
端から端まで30歩で歩けてしまうということから、
地元では普通、
三十歩神社(さんじゅうぶじんじゃ)と呼ばれている。
ぼくの町には、
この神社の祭神である赤留姫(あかるひめ)に関して、
昔から語り伝えられた伝説がある。
この伝説がかなり ぶっ飛んでいておもしろいので、
今回はそれを紹介する。

もともとこの赤留姫という人は、
むかし朝鮮半島に存在した
新羅(しらぎ)という国の皇太子殿下が
小さいときから大事にしていた
赤いルビーの宝石だった。
ところがこのルビーは、
長年大事にされているうちに、
なんと皇太子殿下のことを好きになってしまったのだ。
そこでこのルビーは、
夜空に昇った月に向かって
「お月さま、お月さま、どうか私を人間にしてください……」
と願いをかけて、
ついに人間にしてもらった。
ロマンチックなお話だ。

そして、
皇太子殿下と恋に落ちるわけなんだけど、
二人の結婚に王妃様が反対するのだ。
そんな身元の分からない女と結婚したら
王家の血が穢れるとか何とか、
わけの分からないことをわめきまくったそうなのだ。
余計なことをする奴だ。

そこで、また赤留姫は月を見上げて、
「お月さま、お月さま、どうか私たちを結婚させてください」
と願いをかけた。
するとその夜、
王妃様の枕元に月が現われ、
「あの娘のことはワシが保障する。
 いいかげんに、意地を張ってないで結婚させてやれよ」
と、王妃様を説得してくれたのである。

こうして赤留姫と皇太子殿下は
結婚できることになったのだ。
めでたしめでたし

……と、ここで終わればいいのだが、
話はまだまだ続くのだ。

なんとこの皇太子、
赤留姫と結婚したとたんに態度が変わって、
家庭内暴力をふるうようになってしまったのだ。
赤留姫のことを殴って蹴って、
タバコの火を押し付け……たかどうかは知らないが、
とにかくひどいものだったらしい。
そこで、
赤留姫はまたまた月にお願いをはじめるのだ。
「お月さま、お月さま、どうか私たちを離婚させてください……」
と。
すると月は、
「お前が結婚したいと言うから結婚させたったんやんけ。
 そんなんお前が勝手に自分で何とかせーや、
 ボケーッ!」
っと、
逆ギレしてしまったそうなのだ。
そりゃそうですよね。

そこでようやく、
赤留姫は反省したのだ。
今まで自分は、
お月さまにお願いをするばっかりで、
自分から積極的に何かをやったことは一つもなかった……と。

そして、
赤留姫は家出をすることに決めたのだ。
もちろん、
「家出」といっても
最近はやりの「プチ家出」ではない。
命がけの家出である。
なにしろ、相手は一国の皇太子なのだ。
国中の どこに逃げたって、
最後の最後にはつかまってしまう。
もちろん、時代が時代なので、
外国の大使館に駆け込むわけにもいかない。
逃げるためには国外に脱出しなければならないのだ。

赤留姫は決死の覚悟で宮殿を脱出。
闇にまぎれて何とか海まで逃げたのだ。
そして、
そこに止めてあったボートを盗んで日本海を渡り
(朝鮮では「日本海」じゃなくて「東海」って言うんでしたっけ)、
ついに大阪市の東南部にある平野の町まで
一生懸命ボートをこいで逃げてきたのだ。
赤留比売神社の隣に「平野川」という川が流れていて、
大阪湾からそこを上ってきたそうだ。
すごい根性である
(余談だが、
 戦前、この平野川の改修工事をするために、
 朝鮮半島から多くの人が連れてこられて
 改修工事に従事した。
 この人々が戦後、
 一ヶ所に集まって定住したのが、
 日本一のコリアタウン・生野である)。

しかし、
すごかったのは赤留姫のほうだけではない。
皇太子のほうもすごかった。
自分の妻が家出したことを知ったとき、
自分のやったことを泣いて後悔して、
次の王位も何もかも捨てて、
日本まで追ってきたのである。
まあ、
ストーカーの元祖みたいなものだろう。
それを知った赤留姫はびっくりして、
「別れた夫がしつこく追ってくるんです!」
と言って、
住吉大社に駆け込んだのだ。
結局、皇太子は、
住吉大社の神さんにボコボコにされて、
兵庫県に追い返されてしまうのだ。

こうして赤留姫は、
世界で初めてストーカーを撃退した女になったのだ。
皇太子は今でも、
兵庫県の出石神社(いずしじんじゃ)というところに居座って、
復縁を迫っているという噂である
(ちなみに、この出石というところは そばがおいしいらしい)。

「国境を越えた愛」というのはいくらでもあるが、
「国境を越えたストーカー騒動」というのは
そうそうあるものではない。
神の存在を断じて信じない僕ではあるが、
一応、この赤留姫が僕の「氏神」ということになるらしい。
離婚とストーカー退治にご利益があるらしいが、
恋愛成就のお願いなどは絶対に聞いてくれないという噂である。

なかなかおもしろい話だとは思いませんか?

ちなみにこの話は、
『古事記』にもちゃんと載っている。
最近、文芸春秋社から発売された
『口語訳古事記〈完全版〉』という本が
全国の書店で平積みにされているが、
訳文が読みやすくておもしろい
(それでいて、
 一語一語かなり忠実に訳しているらしい)。
平野に伝えられている伝説とは多少食い違う部分もあるが、
大体のあらすじは同じである。
本の最後に付いている索引で
「アカルヒメ」という言葉を引くとこの話が出てくるので、
読み比べてみるとおもしろいかもしれない
(ちなみに、
 古事記のほうではこの皇太子は
 さらにえげつない人物として描かれている)。

そして、
『日本書紀』にも載っている。
さらにその部分が、
鈴木先生の御本に引用されて載っている。
『こんな日本 大嫌い!』(青谷舎)という
辛淑玉さんとの対談本の中で、
辛さんが「帰化」という言葉の起源を説明するために引用しているのだ。
 
(新羅の王子、天の日槍)己が国を以て弟の知古に授けて化帰す。
〈垂仁三年、「一云」〉(『こんな日本 大嫌い!』134ページ)


この「新羅の王子、天の日槍」(あめのひぼこ)というのが、
今回の話に出てきた新羅の皇太子のことである。
王位を弟に譲り、
赤留姫を追って日本にやってきて、
後に日本に「化帰」したことがここで描かれているわけだ。
これが、外国人が日本の国籍を取ることを
「帰化」と呼ぶようになった始まりである。

もちろん、
この話自体が史実であるかどうかは
かなり疑わしいのも事実である。
ただ、
こういう話が生まれてくる背景には、
もちろんそれなりの事情がある。
僕の住む町・平野には、
古代から朝鮮渡来人が多く住みついていたという。
その証拠に、
平野の周辺には、
杭全(くまた)・百済(くだら)・加美(かみ)・喜連(きれ)などと、
はっきり言って読みにくい地名が少なくない。
これらはどうやら、
古代朝鮮語に由来する知名だといわれている。

また、
「平野」という地名のもとになったといわれる
坂上広野麻呂
(さかのうえのひろのまろ:
 蝦夷「討伐」で有名な坂上田村麻呂の息子で、
 「ひろのまろ」の「ひろの」がなまって
 「ひらの」となったといわれている)も、
元をたどれば朝鮮渡来人の子孫である。
この坂上家の一族は江戸時代になっても平野で勢力をふるい、
分家の一つ・末吉家は
朱印船貿易でベトナムと交易して大もうけしたそうだ。
ちなみに、
東京の「銀座」を作ったのも
この末吉家の人間だ。
坂上家の本家は戦後、北海道に移住したそうだが、
分家の末吉家は今でも神社の氏子総代をやっている。

この話は、
おそらくそうした渡来人によって
作られたのではないかといわれている。

また、
赤留姫が住吉大社にかくまってもらったのも、
住吉の神と関係の深い朝鮮半島にあったもう一つの国・百済と、
皇太子の母国である新羅との対立関係が
背景にあるとも言われている。
赤留姫は新羅からの弾圧を避けるために、
対立関係にあった百済系の施設に駆け込んだのだ。
そう考えれば、
「大使館駆け込み」に通じるような部分もあるのかもしれない。

さて、この赤留姫と天の日槍(皇太子)、
最近ついに顔を合わす機会があったそうなのだ。
2000年ぶりの再会だ。
これは「歴史的会談」である。
そして、
二人は仲良く笑顔を振りまきながら一つの写真に写っている。
「歴史的和解」だ。

この写真は、
「ハナマトゥリ」というフェスティバルの
パンフレットの表紙を飾っている。
「ハナマトゥリ」とは朝鮮語で「一つの祭り」という意味だ。
「ハナ」が「一つ」、
「マトゥリ」が「祭り」を表す。
韓国系の在日団体「民団」と、北朝鮮系の在日団体「総連」が
合同で行なう画期的なお祭りだ。
この、長年対立してきた二つの団体が合同で一つの祭りを開くなんて、
ちょっと前までは考えられなかった。
その、「歴史的和解」の象徴としてパンフレットの表紙を飾ったのが、
赤留姫と天の日槍だったのだ。

天の日槍は過去の家庭内暴力について
「率直に謝罪」したのだろうか。
それとも、
祖国統一のために赤留姫が「大幅に譲歩」したのだろうか。
パンフレットにはそのあたりについて、
何の説明もない。
どうやら、「玉虫色の決着」であったような気がする。
『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.6より転載)
# by imadegawatuusin | 2002-09-30 19:03 | 文芸

『ロックンロール・ニューズメーカー』という雑誌を買ってきた。
2002年10月号だ。
ここに、
人気ヒップホップグループ・「キングギドラ」の
インタビューが載っている。
彼らのことは、
この「裏主張」で3週間前に取り上げたばかりだ。

『UNSTOPPABLE』という彼らのCDに収録された
『ドライブバイ』という曲の歌詞は、
はっきり言ってひどかった。

ニセもん野郎にホモ野郎 
一発で仕止める言葉のドライブバイ 
こいつやってもいいか 
奴の命奪ってもいいか


これが、この曲のサビの部分だ。
サビの部分だから、何度も繰り返されるのだ。
「ホモ野郎」を「ニセもん野郎」と同列視したあげくに、
「こいつやってもいいか 
 奴の命奪ってもいいか」などと殺人を煽り立てる、
こんな歌詞が何度も繰り返されるのだ。

それだけではない。
この歌はそのあと、

だってわかってやってんだろう 
そのオカマみたいな変なの 
だいたいわかる居そうなとこ 
いつでも行ける行こうかそこ 
おめえの連れたアバズレのレズに 
火の粉かけたくなきゃパッくれろMC 
どうしたビビったか 
ママの選んだパンツにチビッたか
(中略)死になクズが


と続く。

僕は、
この歌詞を見たとき、
はっきり言って途方にくれた。
言葉が何も出てこなかった。
そして、
このようなCDが
オリコンチャートで6位を獲得していると知ったとき、
寂しさと、悔しさと、
そのほかにもいろいろ、
言葉にできないような恐ろしい気持ちに包まれた。

けれど、
「言葉が出ない」・「言葉にできない」なんて、
そんな甘っちょろいことを言っていることはできないのだ。
言語に絶するこの曲に、
それでも僕は言葉でいどんでゆかなければならない。

もとより僕は、
言論の自由を重んじる。
当然、
「キングギドラ」のメンバーたちにも
言論の自由を認めなければならない。
彼らがこの曲を発表したことによって
法的に罰せられるような事態が起こることを
僕は断じて認めない。
だから、
国家権力の介入を期待することは許されない。

権力の介入を許せないなら、
個人的「肉体言語」で対決するか? 
けれど、
平和主義者の僕は、
暴力をふるうことも許せない。
そもそも、
それを実行するだけの体力も根性も持ち合わせていない。
第一、
「キングギドラ」のメンバーを殺しても、
結局は彼らを「言論弾圧と闘った英雄」に祭り上げてしまうだけだ。

だから、
僕に残された武器は、
言葉しかないのだ。
出てこない言葉を搾り出してでも、
僕は声を上げなければならない。
その、ようやく搾り出された言葉が、
『週刊金曜日』5月31日号に掲載された投書であり、
「今週の裏主張」に載せていただいた投稿だ。

同性愛者は信じられないほど弱い立場に立たされている。
もちろん、
いま日本には同性愛者差別のほかにもさまざまな差別が存在する。
在日外国人差別・少数民族差別・被差別部落の人たちに対する差別……。
これらはもちろん、
僕たちが全力を尽くして無くしていかなければならない不当な差別だ。

けれど、
これらの差別と同性愛者への差別とが決定的に違う点が
一つある。
在日外国人も、少数民族も、被差別部落民も、
そのお父さんやお母さん、
そして兄弟・親戚など、
近しいところに「同胞」がいる。
けれど同性愛者は違う。
よほどのことがない限り、
同性愛者のお父さんやお母さんは異性愛者だ。
兄弟、親戚にも同性愛者がいることはまれだろう。
彼らは、
世間の中で差別を受けるだけではない。
最後の最後に頼るべき家族の中にも、
彼らを理解するものがいないという悲劇が往々にして起こる。

僕は、そんな状況を変えたい。
同性愛者はからかわれ、
いじめられても当たり前だという世の中を変えていきたい。
男同士・女同士の恋人たちが、
東京ディズニーランドで堂々と手をつないでデートをするのが
当たり前になる世の中を創りたい。
その思いで、僕は「同性愛者解放」を叫ぶのだ。

しかし、
そんな声は、
「キングギドラ」のメンバーたちには
まったく届いていなかったようだ。
今日買ってきた『ロックンロール・ニューズメーカー』の中で、
「キングギドラ」のメンバーの一人、
「K DUB SHINE」氏は、
CDが発売停止に追い込まれたことについて次のように述べている。

どこがいけないんだろう?っていうのはいまだにあるよ。
普通の日常会話でしゃべってることを、
そのまま曲にするのがラップだからさ



「どこがいけないんだろう?」……って、
あなた、あの歌詞を見て、
それでもどこがいけないか分かりませんか? 

「普通の日常会話でしゃべってることを、
そのまま曲にするのがラップ」って、
つまりあなたは、
「ホモ野郎」をつかまえては、
「こいつやってもいいか」・「奴の命奪ってもいいか」などと
「日常」的に「会話」しているわけなんですね! 
よく分かりました。

CD発売元の親会社・(株)ソニー・ミュージックエンタテインメントによると、
あなた方は「反省し、深くお詫び申し上げ」ているというお話でしたが、
やっぱり反省なんかしていなかったのですね
(ソニーは、
 キングギドラ」が反省し、謝罪していることを
 「紛れもなく本物」であるとまで太鼓判を押していたはずなんですが)。
あの事件についての初めての公式コメントであるにもかかわらず、
「反省」という言葉も「お詫び」という言葉も、
インタビューを見る限り、
まったくどこにも見当たらないではありませんか。

とりあえず、
「どこがいけない」かについては、
「キングギドラのCD回収を振り返って」という原稿に
詳しく書いておきましたので、
お送りしたいとおもいます。
おそらく、
読んでいただけることはないと思いますが、
「K DUB SHINE」さんは

一般の人、
つまりゲイでもないし
ゲイを嫌いでもない普通の人に判断してもらいたい、
っていうのはあるよね。
そういう人がどう思ったか?っていうのは、
わかんないで終わってるから。
そこが、なんか煮え切らない


ともおっしゃってますので、
「ゲイでもないし
 ゲイを嫌いでもない普通の人」であるところの僕の意見を、
もしかしたら聞いてくれるかな、という希望を
少しは残しておきたいと思います
(でも、「一般の人」って何? 
 「普通の人」って何? 
 ゲイは「特殊」で「特別」な人なわけ? 
 ついでに言っとくと、
 まずはこの歌詞によって心を傷つけられた同性愛者の意見に
 しっかりと耳を傾けたうえで、
 自分で「判断」するのが筋だと思う。
 「ゲイでもないし
 ゲイを嫌いでもない普通の人」に決定権があり、
 当事者である「ゲイ」の意見はあまり重要でないかのようなこの発言には、
 やっぱり疑問を覚える)。

あといくつか、言わせてほしい。

たぶん回収騒ぎがなければもっと行ったと思うから、
全然不本意だよ。
セールス的にはいままでよりもいいのかもしれないけど、
あの登場の仕方だったら、
トップ10に何週も入るもんだと思うし、
ほんとにちゃんとヒットするべきだったと思うんだよね(「K DUB SHINE」氏)


たしかに、
回収騒動がなかったらトップ10に何週も入る勢いでした。
このような曲が我が国のオリコンで上位を占めてしまったことが、
僕もたいへん不本意です。

作ってる段階では、
いいか悪いかっていうのは、
たとえばオレらがまったく問題ないと思って出しても、
DefSTARからこれはダメだって言われることもあるわけで、
そこの判断は、
プロフェッショナルな人にまかせたいっていうのもあって。
(中略)単純に言葉狩り的な部分でダメならば、
それはもうしょうがないのかもしれないし(「ZEEBRA」氏)


おかしいですね。
「DefSTAR」さんのほうでは、
 この歌詞が「社内で問題になったが、
 本人たちが『差別するつもりで作ったのではない』と言っているので
 発売した」と言っているのですが……。
「DefSTAR」側の言い分を信じると、
「ダメ」かどうかの「判断」は皆さんがしたということになります。
皆さんの言い分を信じると、
「ダメ」かどうかの「判断」は
「プロフェッショナルな」「DefSTAR」の社員に
「まか」されたということになりますね。
どちらかが嘘をついているということでしょうか。

それから、
今回のこの件のことを言っているのかどうかはよくわかりませんが、
今回のこの事件は断じて「言葉狩り」ではありません。
あなた方は「ホモ野郎」を
「やってもいいか」・「命奪ってもいいか」と言ったのです。
これを、どのように「適切」な言葉に言い換えたとしても、
事態は何も変わりません。
一つ一つの言葉ではなく、
この歌全体に流れる同性愛者蔑視の思想そのものが問われているのです
(もちろん、
 いわゆる「言葉狩り」的な視点から見ても、
 とんでもない言葉があふれているのも事実ですが)。

とはいえまあ、
皆さんの主張の中で、
共感できる部分も一応挙げておきたいと思います。
皆さんはこのたび、
『911』というCDを発表なさったそうですね。
昨年9月11日の同時多発テロ事件などに対して、
音楽を通じて発言していこうという皆さんの姿勢は立派だと思いますよ。

ZEEBRA  
オレらは日本にいて
それを見て、っていうスタンスが基本なんだけど。
だからメディア批判みたいなことも言ったし、
どっち側でもないからこそ冷静に見えてる部分もあると思うし。
でも日本は、どっち側でもなくないでしょ?

インタビュアー 
自動的にアメリカ側に入っちゃいますね。

ZEEBRA   
そうでしょ?
自動的なのはなぜなんだ?って思うよね。

K DUB SHINE 
日本人も、
一般のレベルではもっといろんな意見があるはずなんだよ。
でもマスコミとかの論調がどうしてもアメリカ寄りだし。
政治的に仕方がないとは思うけど。
でもアメリカの報道よりは、
日本の報道のほうが中立だとは思うし。

ZEEBRA 
たとえば、ことイスラム教に関しては、
日本では認知度が低いと思うし、
イスラム教って聞いただけで
狂信者みたいに思われちゃいそうだけどさ


このあたりは、
なかなかいいところを突いていると思いますね。

では最後に、
ちょっとした話をご紹介して、
今回の文章を終えたいと思います。
「ZEEBRA」さんがおっしゃるように
「イスラム教って聞いただけで狂信者みたいに思われ」ていたのは、
何も現代の日本だけではありません。
中世のヨーロッパでもそうでした。
中世のキリスト教勢力は、
イスラム教を悪く見せるためなら何でもやったといっても過言ではないくらいです。
そしてこのとき、
イスラム教徒を悪く見せるために利用され、
とばっちりを受けたのが同性愛者だったのです。
たとえばこんな風に。

(マホメットは)自然の敵であり、
彼の民族の間にソドミー(酒井注―男性同性愛)という悪徳を
普及させた人である。
彼は男女両性と性的淫交に耽った(『オリエントの歴史』 ジャック=ド=ヴィトリ)


サラセン人の宗教(酒井注―イスラム教)によれば、
どんな性的行為でも何でも許されるのみならず、
是認され、承認される。
(中略)彼らはその身体を堕落させ、
人目にさらしている。
「男と男と恥ずべきことを行い」、
彼らは「己が身に」罪と過ちの報いを受け取る。
サラセン人は人間の尊厳を忘却して、
これらのオカマたちのもとへ自由に通い、
私たちの間で男と女が公然と一緒に暮らすように、
彼らと一緒に暮らしている(『サラセン人撲滅論』 アダのウィリアム)


つまり、
当時のイスラム教が、
キリスト教と比べると
一般的に同性愛者に寛大であったという素晴らしい事実を
逆手にとったうえに誇張して、
「イスラム教徒はけしからん。
 なぜなら、イスラム教徒は同性愛者だからだ」と、
むちゃくちゃな論理を展開してイスラム教徒を貶め、
返す刀で同性愛者を貶めているのです
(「同性愛はケシカラン」ということには、
 もはや「前提条件」として何の疑いも差し挟まず、
 論証しようとする努力すら見せようとしない横暴さに注目!)。

そして当時、
同性愛者に「寛大」であったイスラム教と、
「厳格」であったキリスト教、
どちらが「人道的」であったかは歴史が証明しています。
十字軍はエルサレムを占領したときに
大勢のイスラム教徒・ユダヤ教徒を虐殺しました。
そして、イスラム教徒がこれを奪還したときは、
捕虜にしたキリスト教徒をほとんど祖国に帰らせたと言われています。

同性愛者への偏見が、
同性愛者への偏見にとどまらず、
たとえばイスラム教徒への偏見を
助長する結果を生むこともあるのだということを、
イスラム教徒への偏見に憤りを表明される皆さんに
ぜひ知っていただきたいと思います。
『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.5より転載)
# by imadegawatuusin | 2002-09-23 05:40 | 差別問題

同時多発テロ事件が去年アメリカで起きてから
ついに一年が経過した。
死後の世界も天国も信じることのできない僕には、
この残虐な無差別テロで亡くなった人々の
「冥福」(=冥界での幸福)を祈ることは出来ない。
しかし、
これを機会に改めて同時多発テロ事件について
考えを深めることが、
この大きすぎる犠牲を今後の世界に生かしてゆくことのできる
唯一の方法であると考えて、
この文章を書くことにした。

たしかに世界貿易センタービルは、
世界の発展途上国に飢えと貧困を押し付ける
グローバリズムの象徴的存在であった。
しかし、
9月11日のあの瞬間にそこにいたのは、
私利私欲のために
世界経済を混乱に陥れる金融投機家だけではなかった。
ビルの食堂労働者・清掃作業員、
そしてビルの中で行なわれていた建設工事に従事していた
建設作業員をはじめとする大勢の労働者たちが
日々の暮らしの糧を得るためにそこで働いていたのである。
その中には、
世界の飢餓や貧困と闘うために
反グローバリズム運動に参加していた
アメリカ労働総同盟産別会議の組合員も
千人以上いた。
彼らは当時、
国際通貨基金や世界銀行の総会にデモ行進をかけるために
数百台のバスを手配し、
イスラム世界をはじめとする発展途上国に対する債務の帳消しや
投機的金融取引への課税を求める闘いに
合流しようとしていたのである。
そうした人々までもが無差別に同時多発テロ事件で殺されたのだ。
そして、
たとえ殺されたのが
独占資本家としてグローバリズムの一翼をになう人物であったとしても、
高級軍人としてアメリカ覇権主義の一翼をになう人物であったとしても、
非武装の状態にいるときにいきなり命を奪うという
非人道的な行為が正当化されるはずがないことはいうまでもない。
何より、
世界貿易センタービルを破壊するために用いられた手段そのものが、
民間航空機を乗っ取り、
乗客もろともビルに突入・自爆するという
残虐極まりないものであったのである。

もちろん、
たび重なる国連決議を無視して占領地に居座り、
パレスチナ人を殺害するイスラエルに対して
莫大な軍事・経済援助を行なってきたのはアメリカだ。
しかし同時多発テロは、
このような事態を解決するどころか、
アメリカの世論をかえって危険な方向へと押しやってしまった。

大統領選挙での勝利すら疑わしく、
正当性が疑問視されていたブッシュ大統領の支持率は、
テロ事件の影響で大幅にはね上がった。
同時多発テロは、
京都議定書への調印拒否などで
ますます自国優先主義的な傾向を強めていたブッシュ大統領のもとに、
アメリカ国民を団結させてしまったのである。
犯行声明などの形で自分たちの政治的主張を明らかにすることすらせず、
やるだけやってだんまりを決め込んだこのようなテロを、
いかなる意味でも僕は容認しない。

アメリカ政府はこのテロを、
イスラム原理主義勢力・アルカイダの指導者である
オサマ=ビンラディン氏の仕業であると決め付けた。
そして、
彼が住んでいるとされたアフガニスタンを事実上支配していた
タリバン政権に対し、
彼を無条件で引き渡せと要求した。
さらに、
それが実現されないと見るやいなや、
アフガニスタンにおいて空爆攻撃を行なったのである。

たしかに、
「同時多発テロ事件で多くの人が殺されたのだ。
 タリバン政権が犯人を引き渡さない以上、
 空爆攻撃もやむをえない」との意見も分からないではない。
また、
タリバン政権は同性愛者を、
「同性愛者である」というたったそれだけの理由で処刑していた。
「女性に教育を受けさせる必要はない」などということを公然と主張し、
職場からも女性を閉め出していた。
はっきり言って、
とんでもない非民主的政権であったことは事実だ。

けれど空爆攻撃は、
最大限の外交努力を積み重ねた上で、
それでもどうしようもない場合の最後の手段であるべきだ。
報復攻撃で真っ先に犠牲になるのは
アフガニスタンの一般庶民なのだから。
犯人や首謀者だけを殺す爆弾などというものは
どこにもないのである。
しかし、
最大限の外交努力をアメリカが行なったとは、
どうしても僕には思えない。

タリバン側は空爆開始直前まで、
曲がりなりにも「対話による解決」を呼びかけてきた。
しかしアメリカは、
「話し合いの余地はない」などとして、
対話のテーブルに着こうとすらしなかった。

またアメリカは、
「オサマ=ビンラディン氏を引き渡せ」と言いながら、
彼が事件の犯人である証拠さえタリバン側には開示しなかった
(タリバン政権が崩壊した後になって、
 オサマ=ビンラディン氏が
 同時多発テロへの関与を認めるような発言をしている
 ビデオテープが公開されはしたが、
 そのテープが収録されたのは
 アメリカが空爆攻撃を開始した後のことであったとされている)。
「自国に滞在する人間を
 証拠もなしに外国に引き渡すことはできない」というのは、
自称「主権国家」のタリバンにとっては当然の論理であった。
オサマ=ビンラディン氏の引き渡しを
話し合いによって実現するつもりがあるのなら、
アメリカは対話のテーブルに着き、
彼が犯人である証拠をタリバン側に突きつけるべきであったのだ。

以上の手続きを経ないままに空爆攻撃に踏み切ったアメリカが
「最大限の外交努力」を行なったとは言いがたい。
だから僕は、
アメリカによるアフガニスタンでの空爆攻撃に反対した。
その判断は、
今でも間違ってはいなかったと信じている。
このような論理がまかり通れば、
アメリカは自分の攻撃したい国を
いつでも攻撃することが許されることになってしまう。
極端な話、
「この事件の犯人は日本に住む○○という人物だ。
 証拠を示すことはできないが、
 とにかく彼が犯人なのだ。
 彼を無条件で引き渡せ。
 言うことを聞かなければ日本を空爆する」などとして、
日本に空爆攻撃を行なうことも可能だったのである。

アメリカは一方的に世界の警察官となり、
なおかつ裁判官と死刑執行人の権限をも兼ね備え、
世界中に自分たちの決定を押し付けようとしている。
そして、
この「法廷」では弁護人はおろか、
第三者的な傍聴人の存在すら許されない。
「敵か味方か」・「中立はありえない」などという二分法をもって
世界各国を恫喝し、
自分たちへの同調を強制しようとするからだ。
一方でアメリカは、
国際刑事裁判所問題でも明らかになったように
自分自身を国際法の上に置き、
自らを国際的司法権の及ばない位置に据えようとしている。
その最も顕著な例が
このアフガニスタンにおける空爆攻撃だったのだ。

さて、
今回の卑劣なテロ事件には、
いまだに解決への希望が見えないパレスチナ問題や、
経済のグローバル化の進展によってますます拡大する
南北格差が背景にあると言われている。
それはおそらく事実だと思う。

そもそもイスラエルは、
国連決議224号や338号によって、
東エルサレムやガザ地区をはじめとする占領地から
撤退することが決められている。
パレスチナ紛争の原因は、
こうした国連決議を30年以上にわたって無視し続け、
いまだにパレスチナの独立を認めようとしないイスラエルの側にある。
そして、
そうした事態を事実上容認し、
支援してきたのがアメリカだ。
パレスチナ人のキャンプや町は、
今もアメリカからイスラエルに供給された
F16戦闘機や戦闘ヘリコプターによって
粉々に破壊されている。
このようなイスラエルやアメリカの態度が、
パレスチナの人々を絶望的な自爆テロへと
駆り立てているのである。

もちろん僕は、
パレスチナ人による民間人を標的にした自爆テロにも
賛成しない。
このようなテロは
イスラエル人とパレスチナ人の間の憎しみを深め、
隔たりを大きくするものでしかない。
イスラエル軍に侵略・再占領の口実を与えるだけであり、
パレスチナ問題の解決には寄与しない。
しかし、
こうした自爆テロを批判する前に、
まずはイスラエルの側から、
不法な暴力で作られた入植地を撤去し、
国連決議に従ってすべての占領地から撤退し、
パレスチナ国家の樹立を承認するべきなのである。

しかしアメリカはイスラエルに甘い。
アメリカは、
クウェートを侵略したイラクに対しては直ちに軍事攻撃を開始し、
十数万とも言われるイラクの人々を殺害した。
そして、
イラク市民の生活を支えてきた電力や水力のシステムを破壊した。
撤退後も、
国連の数字によっても毎月約5000人の子供が死亡するほどの
厳しい経済封鎖を科しているにもかかわらず
(この毎月の犠牲者数は、
 同時多発テロの犠牲者数を上回る)、
パレスチナを30年以上占領し続けるイスラエルに対しては、
軍事攻撃どころか経済制裁すら行なおうとはしない。

そして、
アメリカが主導する経済のグローバル化は、
世界の富のほとんどを
アメリカを筆頭とする先進国に集中させ、
発展途上国の対外債務を急激に膨張させている。
国際通貨基金や世界銀行は、
そうした国に資金を供給する見返りとして
その国の政府に医療や自国産業への補助金のカット、
そして多国籍企業の進出を容易にするための規制緩和を強制し、
発展途上国の民衆の生活を窮地に追いやっている。

こうして、
アメリカのパレスチナ政策や経済のグローバル化は、
イスラム諸国の民衆の間に反米感情を植えつける土壌を広げている。
こうした「テロの土壌」に目を向け、
解決への努力を行なわない限り、
アメリカに対する自爆テロの志願者が絶えることはないだろう。
そのことを忘れ、
軍事攻撃によってテロを根絶しようとすると、
イスラム諸国の反米感情にますます火をつけるだけである。

そして今アメリカは、
大量破壊兵器を開発していることを理由に
イラクへの先制攻撃に踏み切ろうとしている。
しかし、
少し考えれば分かることだが、
世界最大の大量破壊兵器保有国はアメリカなのである。
世界で最初に核兵器を作ったのもアメリカであるし、
使用したのもアメリカだ。
そして、
今までに蓄積した膨大なデータを基にして、
今も核爆発をともなわない核実験・「未臨界核実験」を続けているのも
アメリカだ。

そもそも、
イラン・イスラム革命の拡大を恐れるあまり、
フセイン政権を増長させたのはアメリカだ。
イラン・イラク戦争中の1988年に
フセイン政権がハラブジャ事件を起こしたときも
アメリカは、イランへの対抗上、
フセイン政権との友好関係を保つため、
事実上これを黙認したのである。
このとき、
フセイン政権の使用した化学兵器によって
5000人とも言われるクルド人が虐殺されていたにもかかわらず
(子供や老人も含めて村ごと皆殺し、といった状況だった)、
アメリカはこれを見殺しにしたのである。
それが、
今頃になってクルド人たちに、
フセイン政権打倒の反乱を起こして親米政権を作るように
話を持ちかけている。

イラク民衆の間に民主主義思想を広めることによってではなく、
外国勢力による軍事介入によって
フセイン政権を打倒しようとするこのやり方は、
まさしくテロそのものである。
リビアの最高指導者・カダフィ大佐は8月31日、
次のように述べている。
「イラクが攻撃されて体制が崩壊すれば、
 イスラム世界が西洋に脅かされているというビンラディンの説が
 正しかったことになってしまう」。
イラクへの先制軍事攻撃は、
イスラム原理主義者たちにテロの大義名分を
与えることになるだろう。
また、
逆説的な話だが、
こうしたアメリカの態度こそが、
「アメリカは、
 我が国への軍事侵略を公然と主張している。
 世界一の軍事大国であるアメリカに対抗するには、
 核兵器を保有するしかない」と、
大量破壊兵器開発を正当化する口実を
イラクに与えているのである。

フセイン独裁政権の打倒は、
イラク民衆の主体的な意志に基づく行動によって
なされるべきだ。
アメリカの軍事先制攻撃は
明らかに「国家の自衛権」を逸脱した介入攻撃であり、
許されるべきではない。
これがもし、
国連決議も取らないアメリカの単独攻撃となった場合は
なおさらである。
アメリカは、
イラクの体制をその一存で決定する権利を
持っているわけではないのだから。

また、イラクの側も、
大量破壊兵器を持っていないと言うのなら、
国連による査察を無条件で受け入れることを
ただちに表明してほしい。
「無条件での受け入れ」には
たしかに理不尽な部分も多いのかもしれないが、
イラクの側も、
多くの民衆を巻き添えにする戦争を回避するために、
最大限の努力をしてほしい。

僕は、
同時多発テロ事件から1年を迎えるにあたって、
改めてテロリズムに反対することを表明し、
合わせて、
アメリカによる戦争政策にも反対する。
『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.4より転載)
# by imadegawatuusin | 2002-09-15 18:44 | 国際

僕たちの国には、
人権によって護られるべき人間と
そうでない人間がいるのだろうか。
何の罪もない(少なくともまだ何もしていない)人々を、
信じている宗教によって差別する……、
こんなことが許されてもいいのだろうか。
もちろん許されるはずがない。
思想や信仰の自由は最も大切な人権だからだ。
他の人権は「公共の福祉」に服する可能性があるのに対し、
思想や信仰の自由だけは「公共の福祉」の介入を許す余地のない人権であり、
たとえ死刑囚であっても100パーセント護られるべき
絶対的な人権だからだ。
こんなことは当然のことだ。
当然のことであるはずだった。
けれど現実には、決してそうではなかった。

最近、
「人権」という言葉がどんどんカッコ悪くなっていく。
人権なんて、
自分のエゴイズムを正当化するためのものでしかない。
ダサくて、汚くて、そして卑怯だ……、と。
けれど僕は人権思想を、
つまり「どんなに自分と意見の違う人の人権でさえも認める」という考え方を
エゴイズムの対極にある思想だと信じたい。
自分と違う思想を持つ人や、
自分と違う信仰を持つ人の人権を擁護することは、
決して偏狭なエゴイストに出来ることとは思えない。
深くて、そして大きな心を持つ人だけに
出来ることだと思うから……。

今回は森達也さんの書いた
『「A」撮影日誌』という本を取り上げたい。
森さんは、
13ヶ月にわたってオウム真理教の荒木浩広報副部長に密着し、
ドキュメンタリー映画『A』を制作した監督だ。
取材の順番をめぐって大ゲンカを始める民放記者。
大勢の市民の前で堂々と暴力をふるう警察官。
そして何より、それをはやし立てる市民……。
信じられない、いや、信じたくない映像の数々を
森監督は突きつける。
けれど、その映像に対する解釈を
森監督は押し付けない。
後は自分で考えろと、あえて見る人を突き放す。

この本は、そんな『A』の撮影日誌だ。

確かに、
一連の事件を引き起こしたオウム信者の罪は極めて重い。
定められた手続きに従って
厳しい制裁を受けるのは当然だと思う。
これは何も、
「お前はオウムを擁護するのか」と言われたくなくて、
弁解のために一応言っているわけではない。
僕は彼らを憎んでいる。
心の底から憎んでいる。
彼らは、僕の大好きな日本を
僕から奪い取ったのだ。

オウム事件が起こるまでのこの国を
僕はとっても好きだった。
おそらく、森監督もそうだったのだ。

僕は日本を愛していた。
この国に生まれたことを誇りに思っていた。
この土地を、この町を、この山河を、人々を、
何よりも愛おしく思っていた。
南京で虐殺された人の数が
3000だろうが30万だろうがどうでもよい。
慰安婦が実は志願したのか強制されたかもどうでもいい。
数字や記録にこだわらず、
ひたすら謝罪し反省する日本を、
僕は誇りに思っていた。
徹底した自虐史観に誇りを持っていた。
国旗国歌を持たないことに誇りを持っていた。
戦争放棄を宣言して
非武装中立と言う夢を持ち続けることを誇りに思っていた」(森達也 「ポストオウム・1999年11月29日に思うこと」 『ドキュメントオウム真理教』)。


ここに引用した「僕」(=森監督)の気持ちは、
そのまま僕に当てはまる。
オウム事件が起こるまで僕は、
自分がこんなにこの国のことが好きだったなんて知らなかった。
「何が日本だ、愛国心だ。
 こんな国、さっさと滅べばいいんだよ」と
平気な顔で言っていた。
でも、本当はそれは違っていた。
「日本なんて嫌いだ」と平気な顔で言えるこの国を
僕は本当は好きだったのだ。
僕は、オウム事件が起こった後で、
ようやくそのことに気がついた。
そして、そのときにはもう遅かった。
「親孝行したいときには親はなし」っていう川柳があるけど、
そんな気持ちだ。
ケンカばかりしていた恋人と別れた後で、
実はその恋人をものすごく好きだったことに気付く、
って筋書きの少女まんががよくあるけど、
なんかそれにも似ている。
謙虚で平和で自由な空気が日に日に薄れていく中で
ようやく僕は気がついたのだ。
僕がどんなに「嫌いだ」と言っても許してくれるこの国を
僕は心底好きだったのだ、と
(日本国への告白なんてとてつもなく恥ずかしい。
 読んだ人は今すぐ忘れるように)。

そんな愛すべき祖国・日本をすっかり変えてしまったのが
オウム事件だったのだ。
オウム事件は、
「個人の自由ばかりを重視して国家がきちんとしていなければ
 大変なことになってしまう」という認識を
みんなの心に植えつけた。
オウム事件は日本の世論を
僕の嫌いな方向へと押しやってしまったのである。
自虐史観も、一国平和主義も、個人主義も、
「戦後民主主義」と言う言葉で一括りにされて一蹴された。
それに代わって、
自由主義史観や祖国防衛主義・公共主義が
大手を振ってまかり通るようになってしまった。
それもこれも、
松本(麻原)被告をはじめとするオウム事件の
実行犯たちのせいである。
彼らは、
僕の愛すべき祖国を殺したのである。
だから、僕は彼らが嫌いだ。
河野さんが無実の罪を着せられたのも、
何の罪もない子供たちが
「麻原の子供」であるというだけで学校に入れてもらえなかったのも、
もとはといえば彼らのせいだ。
僕は彼らを許せない。

しかし今、何の罪もない人々が、
彼らと同じ信仰を持っている、というたったそれだけの理由で
堂々と人権を侵害されている。
中でも、この本の中に出てきた、
警察官による暴力シーンはショックだった。
オウム信者を押し倒し、
後頭部をコンクリートに叩き付けて気絶させる。
そのとたん、
打ち付けてもいない膝を抱えて悲鳴を上げるという
なんともくさい演技を始め、
公務執行妨害罪でオウム信者を逮捕する。
知識として、
「転び公妨」と言われるこういう手法が存在するのは知っていたが、
白昼堂々 多数の見物人がいる中で、
それもカメラが回っている中でやっているとは思わなかった。
人目につかないところでこっそりと、
隠れてやるくらいの後ろめたさは
どこの警察でも持ち合わせていると思っていた。
恐ろしい。

けれど、もっと恐ろしいのは
それを見ていた一般市民の反応だ。

「人間じゃねえんだからよ、こいつら。
 殺されても文句なんかいえねえんだからよ」
と、嬉しそうに言う中年男性。
「ざまあみろバカヤロウ」
と叫ぶ野次馬。
「全部死刑にしちまえばいいんだよなあ」
「ポアされて本望だろ」
などと言う通行人……。

荒木さんは森監督に、
信者の無実を証明するため、
映像を貸してほしいと訴える。
森監督は拒絶した。
監督の映像がオウムに利用されたとなると、
『A』の中立性が疑われ、
作品としての命取りになりかねない。

オウム信者を押し倒した警察官は
「加療3週間」との診断書を提出し、
信者は公務執行妨害罪に加えて傷害罪にも
問われることになってしまった。
起訴直前のギリギリの段階で、
ついに監督は信者の弁護士にフィルムを提供。
慌てた警察は翌日信者を釈放した。
「加療3週間」の警官は、
事件後数日で署内を元気に走り回っていたそうだ。
こんな悪徳警察官こそ逮捕されるべきだろう。

自分の人権さえ護られれば、
他人の人権なんかどうだっていいという考え方は、
結局自分の人権を脅かすことになる。
善良なる市民の人権さえ護られれば、
オウム信者の人権なんてどうだっていいという考え方は、
結局善良なる市民の人権を脅かすことになるだろう。

教団信者への住民票転入届の受理拒否は
今なお全国で続いている。
特定の宗教の信者であることを理由に
住民票が受理されないのである。
これほどあからさまな法律違反が他にあるだろうか。
これほどあからさまな人権侵害が他にあるだろうか。
全国の裁判所で
自治体がたが十何連敗をきっしている事実を見るまでもなく
明らかに法律違反の人権侵害が、
全国で堂々とまかり通っているのである。

転入届不受理といえば、
興味深い話を何かの雑誌で読んだことがある。
あるとき、森監督が役所を訪ねたときのお話だ。
役所の正面には3つの垂れ幕が下げられていた。
右端が
「ふれあいと、対話が築く明るい社会」。
真ん中が
「人権は、みんな持つもの守るもの」。
そして、左端にある、ひときわ新しい垂れ幕には
「オウム信者の転入・転居届けは受理しません」と
書いてあったそうだ。
森監督は、
『この3つの垂れ幕が共存していることに誰も違和感を覚えないのか。
 オウム信者の転入届を受理しないというのなら、
 「人権」の垂れ幕は下ろしてしまえ』といった意味のことを
どこかの雑誌(確か『創』だったと思う)に書いたのだそうだ。
すると数日後、
本当に「人権」の垂れ幕のほうが
そこから下ろされてしまったのだそうなのだ。
転入届不受理の垂れ幕のほうではなく。

そもそも国や自治体は、
特定の思想や宗教の正邪を判定することの許されない、
価値中立的な存在であるはずだ。
たとえ圧倒的多数の市民によって排斥され、
忌み嫌われているような思想・信仰であったとしても、
それを理由に不利益を課したり
差別的な取り扱いをしたりすることは許されない。

しかし現在、
全国各地の自治体が
公然とオウム信者に対する住民票転入届の受理を
拒否している。
住民票転入届の受理を拒否されるということは、
健康保険証がもらえなくなるということであり、
選挙権が剥奪されるということだ。
これはもはや
行政による嫌がらせとしか言いようがない。
そして、
こうした行為が
「オウムには何をやっても許される」という風潮を
助長したのだ。

オウムに対する住民運動は
どんどんエスカレートした。
オウム信者に対する不売運動に始まり、
ごみの回収の拒否までが
ごく当然のことであるかのように行なわれた。
住民たちがオウム信者の乗った車をパンクさせ、
投石し、
電話工事まで妨害した地域もあった。
挙句の果てには、
松本被告の幼い子供たち
(彼らはもはやオウム信者ですらなかった)にまでデモ行進をかけ、
「悪魔のお前たちに人権はない」などと
こぶしを突き上げるところにまで至ったのである。

オウム信者に対する転入届受理拒否は、
価値中立的であるべき自治体の立場を踏み外す行ないである。
大体、
「転入届の受理を拒否されるのが嫌で
 私はオウムをやめました」という人の話を
僕はいまだに聞いたことがない。
むしろ、
「それみたことか。
 やっぱり俗世はむちゃくちゃだ。
 なりふりかまわず我々を弾圧しようとしているではないか」として、
彼らの信仰を一層かたくなにしているようにすら見える。

そもそも、
転入届の受理拒否にどれほどの効果があるのか、
僕は疑問に思っている。
オウム信者の転入届の受理を拒否しても、
信者がそこに住んでいる事実は拒否できない。
オウム信者に対する転入届の受理拒否は、
自治体や住民の
単なる自己満足に過ぎないのではないだろうか。
いい加減にやめるべきだと僕は思うが。
 
僕は、
悔しいことだが
オウム真理教の「日本社会を根底から覆す」という馬鹿げた企みは、
「物の見事に成功した」と言えるのではないかと思っている。
転入拒否、就学拒否……、
「法の下の平等」という日本社会の大原則は、
オウム真理教の前にあっけなく崩れ去ったのである。
東京拘置所の中から
誰かさんの勝ち誇ったような高笑いが聞こえてくるようだ。

人権は、
「最悪の人間」にも適応出来るものでなければ
「人権」ではない。
「オウム信者でさえ」人権が守られてこそ、
僕たちの人権は大丈夫なのだ。

人権は、
決して神様に与えてもらったものじゃない。
僕たちや、僕たちの先祖が
少しずつ、少しずつ築き上げてきたものだ。
だからこそ、
今、僕たちが守らなければ、
誰も代わりに護ってはくれない。
今、僕たち自身の手で護りぬかなければ、
あっという間になくなってしまうものなのだということを、
絶対に忘れてはならないと思う。
『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.3より転載)
# by imadegawatuusin | 2002-09-09 09:32 | 差別問題

数ヶ月前、
人気ヒップホップグループ・「キングギドラ」のCDが
回収されるという事件があった。
鈴木邦男主義」が連載されている『創』にも
記事が掲載されていたので、
知っている方もいるかもしれない。
「ニセもん野郎にホモ野郎 
 一発で仕止める言葉のドライブバイ 
 こいつやってもいいか 
 奴の命奪ってもいいか」などという歌詞が
サビの部分で何度も繰り返されていたからだ。
この歌詞の中では他にも
「オカマみたいな変なの」という言葉も出てきており、
この歌詞を作詞した「キングギドラ」のメンバーが、
同性愛者を「程度の低いもの」とみなしていたことは明らかだった。

メディアの中にはこの問題を
「不適切表現で回収」と報じたところもあった。
しかし、
これは単なる「不適切表現」の問題ではない。
「キングギドラ」は歌詞の中で
「ホモ野郎」を
「やってもいいか」・「命奪ってもいいか」と言ったのである。
これを、どれほど「適切」な表現で言い換えたとしても、
事態は何も変わらない。
「表現」ではなく、
そこに流れる思想そのものが問題となっていたのである。

鈴木先生はよく、
「抗議があるなら自分に直接言ってほしい。
 自分を通り越して出版社に抗議するのはやめてくれ」と言っている。
しかし、
彼らの対応は全くその逆だった。
この件に関して、
「キングギドラ」のメンバーが表に出てくることは最後までなかった。
すべて、
CDの販売元が前面に出てきて抗議に対処し始めたのだ。
販売元は、
歌詞が問題となっていると見るやいなや
即刻CD回収を決定した。
それなのに、
CD回収を通知する文章の中でもなお
「メンバーに悪意は決してなかった」などと言い切ったのである。
悪意がなくてどうしてこのような歌詞が書けると言うのか。

そして販売元は、
CD回収の理由について、
「同性愛者やHIV感染者の方々に
 不快な思いをさせかねない歌詞が
 一部含まれていると判断」したためだとした。
これもずいぶんとふざけた話である。
同性愛者でなければ、
HIVに感染していなければ、
この歌詞で不快な思いをすることはないというのだろうか。
異性愛者やHIV非感染者もひどく見くびられたものである。
僕は大いに「不快な思いをさせ」られて、
この件についての文章を『週刊金曜日』に投書した(5月31日号に掲載)。

表現活動をしている以上、
必ず人を傷つける可能性はあるものだ。
高らかに恋愛のすばらしさを歌い上げる美しい歌詞であっても、
失恋したばかりの者には「不快な思いをさせかねない」。
「不快な思いをさせかねない」というのは、
CDを回収する理由にはならないと思う。
もしCDを回収するのなら、
表現者がきちんと抗議者の意見に耳を傾け、
自分の表現の中のどういう部分が間違っていたのかをきちんと明らかにした上で、
回収するのが筋である。
しかし、
CD回収という騒動にまで発展したにもかかわらず、
「キングギドラ」はいまだに今回の件について公式に
何のコメントもしていない。
抗議への対応なども、
すべて販売元に任せきりであり、
彼らの声は僕の耳には全く聞こえてこなかった。
ただ、販売元が
「メンバーに悪意は決してなかった」・
「彼らも深く反省している」などと言っているのを聞くことだけしか
できなかったのである。

僕は何も、
彼らを糾弾してCDを音楽界から追放したかったわけではない。
この歌詞を見て心を痛めたものの一人として、
彼らが何を考えてこんな歌を歌ったのかを問いただし、
反省を促したかっただけなのだ。
けれど、
彼らが抗議を真正面から受け止めることはなかった。
彼らが逃げたのか、
あるいは販売元が彼らに口止めをしていたのか、
その辺の事情は僕にはよく分からない。
もしかすると、
「キングギドラ」ほどのグループになると、
メンバーたち本人が抗議に対応したりはしないのが
当たり前なのかもしれない。
そんなのは、
事務所やCD会社の仕事なのかもしれない。
けれど僕は、聞きたかった。
どういうつもりでこんな歌を歌ったのか。
そのことについて今どう思っているのか。
どういう点を反省し、
これからはどうしていこうと思っているのか。
彼らはホームページだって持っているんだから、
そこできちんと説明してほしかった。

「キングギドラ」のメンバーたちはそれらの疑問に答えてくれなかったが、
大学の友人がこの件について僕に意見を言ってくれた。
彼は音楽サークルに所属しており、
「キングギドラ」の大ファンだと言っていた。
彼の意見はかなり貴重だと思ったので、
きちんと取り上げ、これについて考えてみたいと思う。

彼の主張は大きく分けて二つであった。

1.「ホモ野郎」という言葉は、
  文字通りにホモセクシャルの人々を指しているわけではなく、
  「男らしくない男」を表す一種のたとえではないか。

2.同性愛者は趣味で同性愛をやっているのであるから、
  ある程度の差別には我慢すべきではないのか。

まず、
1.について考えてみよう。
確かに、
「ホモ野郎」という言葉が他の何かの比喩的表現であり、
同性愛者そのものを指していたわけではない可能性は否定できない。
しかし、
たとえそうであったとしても、
この歌の悪質さは変わらない。
「ジャップを殺せ!」というCDが発売され、
その「ジャップ」という言葉が「仕事中毒人間」の比喩的表現であって
日本人そのものを指しているわけではないのだとしても、
日本人を侮辱していることには変わりがないのと同じである。
この歌詞の中で
「ホモ野郎」は「ニセもん野郎」と同列視され、
明らかに「悪いもの」としておとしめられている。
「ホモ野郎」という言葉が実際にはどういう人を指していたのだとしても、
「ホモ野郎」というものは悪いものだという前提で
「悪いたとえ」として使われていたことは動かしようがないのである。

また、
「ホモ野郎」を「男らしくない男」という意味で使ったというのなら、
それはそれで見識に欠ける。
「男らしさ」・「女らしさ」という「社会的性別」の問題と、
「ホモセクシャル(同性愛)」・「ヘテロセクシャル(異性愛)」という「性的指向」の問題とを、
全く別の問題であるのに混同してしまっているからだ。
世の中にはいろんな同性愛者がいる。
男性同性愛者もいるし、女性同性愛者もいる。
その男性同性愛者の中にも、
マスコミによく取り上げられるような「女性的」な男性同性愛者もいるし、
逆に「マッチョ」な男性同性愛者もいる。
そして、
男性同性愛者に対する世間のイメージは
大体この二つに絞られてしまっているような傾向があるけれど、
そのどちらのイメージにも合わない男性同性愛者が
大多数だというのも事実である。
要するに、
男性同性愛者にもいろいろいるのである。
右翼にもいろんな右翼がいるように。
そして、左翼にもいろんな左翼がいるように。

何より、
「男らしくない男」なら差別してもいいのか。
日本文化における「男らしさ」には、
「責任感がある」・「力強い」などの意味合いがあるようだが、
反面、「暴力的」・「柔軟性に欠ける」などの側面もある。
男が「男らし」くないことは一概に悪いこととは言えないし、
また男だけが「男らし」く生きなければならない理由も特にない。
「男らしい」ことがそんなにいいことであるならば、
当然女性も「男らし」くてもいいはずだ。
そもそも、「男らしい」云々で言うならば、
今回の「キングギドラ」の対応ぶりは
お世辞にも「男らしい」ものとは言えなかった。

次に2.についてだ。
「同性愛者は趣味で同性愛をやっている」と信じる人は
いまだに多い。
しかし、
性的指向はそう簡単に自分の意思で変えられるものではない。
同性愛者が異性を性的に愛することが難しいのは、
異性愛者が同性を性的に愛することが難しいのと同じである。

もちろん、恋愛とは、
本来は強制されてするものではないから、
広い意味では「趣味」に属する可能性があることは
否定はしない。
しかし、
男が女を愛することや女が男を愛することは
一般に「趣味」とは言わないようだ。
まして、男女の結婚や夫婦生活のことを
「趣味」という人はいないだろう。
それなのに、
同性間の恋愛だけを「趣味」として片付けるのは不公平である。

また、
百歩譲って同性愛が趣味だとしても、
それは決して同性愛者に対する差別を正当化しない。
もし、
将棋好きの人が我が国では差別されており、
「将棋野郎を殺せ!」というCDが発売されたとしよう。
将棋好きの人たちは趣味で将棋をやっているのであるから、
これに抗議する権利はないのだろうか。
少なくとも、
僕はそうは思わない。
同性愛が趣味であろうとなかろうと、
不当な差別に抗議するのは実に当然のことなのだ。

世の中には、
同性を愛する人間もいれば、
異性を愛する人間もいる。
両者は単に恋愛対象が異なるだけで、
この違いが人間としての価値に差をつけることはありえない。
「変態」なのは同性愛者の方ではない。
同性愛者を嫌悪し、排除し、笑いものにする社会の方こそ、
はっきり言って「変態」なのだ。
同性愛者に対する差別・偏見はやはり不当なのである。
『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.2より転載)
# by imadegawatuusin | 2002-08-30 05:26 | 差別問題

鈴木先生と私

中学生のときに、
僕は初めて鈴木先生に出会いました。
学校の図書室で、
筑紫哲也さんの対談集を読んでいたときのことです。

僕は、
日教組地方支部の専従役員をやっているような父親に育てられたせいか、
小さいころから少し左がかった人間でした。
もちろん、
「左がかった」といっても、
別にマルクスとかレーニンとかの思想を持っていたわけではありません。
筑紫哲也が大好きで右翼が嫌いな子供だった、
くらいの意味だと理解してください。
 
まあそんなわけで
筑紫哲也の対談集なんてものを読んでおりましたところ、
その対談相手の一人が鈴木先生だったのです。
読後の第一印象は……、
はっきり言って「最悪」でした。
今から考えると何でこんなに腹が立ったのか分からないくらいに
とにかく腹が立ちました。
多分、
「右翼」という先入観を持って読んでしまったというのも理由の一つだと思うのですが、
やたらと高圧的・独善的・暴力的な人間に見えたのです。

たとえば、鈴木先生はこんなことを言っています。

天皇を批判する人間に度胸がない、と。
もし、本当に思想に命をかけるというのならば、
殺されたっていいじゃないですか。
それくらいの覚悟でやるべきですよ。
こっちだってその覚悟でやってるんですから。


読んだ後、
しばらく言葉も出ませんでした。
唖然とした、というか……
(今読めば、それほどひどい発言とも思わないのですが)。
当時の僕は、
確かこんなことを考えていたと思います。

「殺されたっていいじゃないですか」って……、
「いい」訳無いやないか! 
お前ら右翼が天皇制に命を懸けるんは勝手やけれども、
何で『たかが』天皇制を批判するのに命まで懸けなアカンねん。
そんな事せんでもこんな訳分からん制度、
そのうち潰れるに決まってる。
まあ、お茶の家元制とか、
歌舞伎の襲名制みたいな感じで民間の制度としては
残っていくかもしらへんけどな。

今から考えれば、
ずいぶん皇室制度を甘く見ていたことが分かります。
「『たかが』天皇制」は「そのうち潰れる」と
本気で信じていたのですから。
そのくせ自分は「護憲派」だと思っていたのですから、
相当いい加減な人間だったということが分かりますね
(結局、
 僕が改憲派に転向したのは皇室制度が原因ではなく、
 同性愛者に対する結婚差別規定=憲法第24条
 「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」を改正しなければ、
 真の意味での同性愛者解放はありえないと考えたことがきっかけでした)。

その後、
「現代用語の基礎知識」や「知恵蔵」で左翼の項を見るのが大好きだった僕は
(中核派はヘルメットが白で機関紙は『前進』……ってなことを
 小学生のころから暗記して、
 メーデーでその党派を見つけては大喜びするような変な子供でした)、
少し手を広げて右翼の項も読んでみました。
それによると、
「鈴木邦男」氏は「野村秋介」氏と並ぶ新右翼の代表的指導者である、
ということでした。
そして中でも「鈴木邦男」氏は、
新右翼を代表する理論家であるということです。
それを読んだ結果、
「野村秋介」氏は「右翼の宮本顕治みたいなもん」で、
「鈴木邦男」氏は「右翼の黒田寛一みたいなもん」だと
僕の頭にはインプットされてしまいました。
こうして、
「鈴木邦男」=「怖くて厳しく頭が固い」というイメージは
ますます補強されたのです。

ところが、
そんな印象があっさり粉砕されてしまったのが、
例の「朝日新聞インタビュー事件」でのことでした。
もちろん、
これが「事件」になっていたことを知ったのはずいぶん後のことなのですが……。

たしか、
鈴木先生の前日には、
沖縄反戦地主の知花昌一さんがこのコーナーに登場していたと思います。
そのインタビューがとてもおもしろかったので、
「このシリーズは今後も逃さず読むことにしよう」と
僕は決意したのです。
ところが、
翌日登場したのはあの恐ろしい右翼・「鈴木邦男」氏ではありませんか! 
最初は怖かったのですが、
一応『読んでやる』ことにいたしました。

で、結局、
むちゃくちゃおもしろかったのです。
いわゆる「朝日新聞インタビュー事件」で問題となったのは、
「国旗が『赤旗』になって、
 国歌が『インターナショナル』になるなら、
 それでもいい」という鈴木先生の発言だったそうですが、
僕はその部分よりむしろ、
「国の歌や旗なんだから、
 少なくとも国家を代表する大会や集会だけで使えばいいんです」・
「それ(筆者注―日の丸・君が代)に代わる、
 みんなが尊敬できる歌や旗とかいっても、
 その歌や旗のもとに一致団結したら危ない」・
「日本の歴史で国旗や国歌が出てきてまだ百数十年。
 明治維新で西欧の影響を受けてからです。
 『極右』の人なら、
 西欧をまねて作った国歌や国旗なんて捨てて
 『本来の日本に戻れ』と主張してもいい」
などといった部分に心ひかれる思いがしたのです。

僕の思っていたような「右翼」とは、
少し違うのかもしれない。
たとえ思想が違っても、
この人となら何かが共有できるのではないか……。
そう思い始めた僕は、
その後本屋で鈴木先生の本を立ち読みし、
買いあさり、
掲示板にまで書き込みをはじめ……、
そして現在に至っているというわけです。

鈴木先生の御本を読むようになって、
一番の収穫だなと思っていることは、
右系(保守系・右翼系・民族派系を問わず)の人の書いた文章を
冷静に読めるようになったということです。
それまでは、
そうした文章を読むときには、
「こいつは右翼だ、反動だ。
 きっと裏から金をもらって嘘八百を並べ立て、
 善良な市民をだまくらかそうとしているに違いない」という心構え(?)が先にあって、
とても冷静に読めたものではありませんでした。
けれど鈴木先生の御本を読んでからは、
「ウソや間違いもあるかもしれないけれど、
 この人にはこの人なりの信念があって頑張ってるんだ」という
穏やかな気持ちで幅広く文章を読むことができるようになったのです。
「右も左も宗教も、
 やり方は違っても『よりよい世界』を目指して
 頑張っている」という当たり前の事実に、
ようやく気づくことができたのです。

最後に、鈴木先生の御本に触れて作った短歌を置いておきます。

●外ゲバはないんだ 左右の「外ゲバ」は政治おたくの内ゲバなんだ


『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.1より転載)
# by imadegawatuusin | 2002-08-16 05:14 | 政治